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―ソロクト・楽生院ハンセン病訴訟の判決ー 2005年10月25日東京地裁前 埼玉大学4年 阿部寿子 |
| 2005年10月25日。久しぶりに早く起きた。天気もいいし,時間もある。ならば,ちょっと霞ヶ関に行ってみようかな。そんな思いつきで行った東京地裁。大学のゼミの先生にいただいたメールによると,“勝訴”するのはほぼ確実。だから本当に,本当に軽い気持ちで,わたしは裁判所に向かった。 東京地裁に来るのは今日が2回目だ。そう,1回目は1年前の山下ミサ子さん(裁判上の仮名)の医療過誤訴訟。そのときの教訓を活かし,時間に余裕をもって家を出た。“30分前に着けば中に入れる”そう考えていた。でも,実際到着してみると思わず絶句……。霞ヶ関駅A1出口の前には長蛇の列ができていた。みんな横断幕をもって並んでいる。「えーっ!! なにこれ!?」思わず口に出てしまった。ズラズラーッと,並んだ人のなかにはハンセン病元患者さんと支援の会のひとだけでなく,応援に駆けつけた在日コリアンのひともたくさんいたようだ(チョゴリを着ていたり,韓国海苔を持っていたりしたので,そう考えられる)。ほとんどが中高年だが,20代ぐらいのひとも結構いた。わたしはこんなに関心を集めている裁判だと思っていなかったので,ここで初めて,事の大きさに気づかされた。だんだん不安になって“どうしよう……”と思っていたそのとき,ゼミの先輩の高野静さんと金香月さんがやってきた。よかった,これでどうにかなりそうだ。 1 裁判の内容 今日の裁判は,2つの訴訟の判決を聞く。2つの訴訟といっても争点(内容)は同じ。ただ,原告が台湾楽生院の元患者さんと,韓国小鹿島(ソロクト)の元患者さんに分かれているので“2つの判決を聞く”ということになったのだ。 訴訟の内容を簡単にいうと,“台湾楽生院と韓国小鹿島に住む,ハンセン病元患者さんにも,日本国内にいるハンセン病元患者さんと同じように補償を求める!!”というもの。なぜ楽生院と小鹿島の元患者さんが,日本政府に補償を求めるのかというと,この2つの療養所が設置されたとき,両領土は日本政府の植民地統治下だったため,彼ら/彼女らも日本の隔離政策の被害者だといえるからである。 1907(明治40)年に日本では「癩予防ニ関スル件」(「明治40年法」ともいう)が制定された。これはハンセン病患者を療養所に入所させるためのもので,日本初のハンセン病に関する法律だった。それから9年経った1916年,当時日本政府の植民地統治下だった朝鮮に「小鹿島慈恵医院」(小鹿島病院の前身)が開院。1930年には,同じく日本の植民地統治下であった台湾に「台湾総督府癩療養所楽生院」(台湾楽生院療養院の前身)が開院された。この2つの施設は,朝鮮・台湾の両総督府がそれぞれ設置したものである。ここでも,多くのハンセン病患者が隔離され,強制労働や断種・堕胎などの人権侵害を受けていた。――TVの報道によると院長も職員も日本人だったらしい。 2001年,熊本地裁が隔離政策は誤りだと認める判決を下し,国に賠償命令が出た。そしてその1ヵ月後「ハンセン病補償法」が成立した。この法によって“日本国内の療養所”にいた約3,500人の人々に計約420億円の補償金が支払われた。楽生院や小鹿島の元患者さんたちも,同じく日本の隔離政策の被害者だ。そこで,2003年に韓国小鹿島の入所者が,2004年には台湾楽生院の入所者が,それぞれ同法に基づいて国に補償請求をしたが,どちらも棄却されてしまった。その結果,両施設の入所者は補償を求めるために昨年,東京地裁へ提訴したのだ。 普通に考えれば,これは本当におかしなことだ。いまは違う国かもしれないが,当時は日本政府の統治下でこの隔離政策はおこなわれたのだ。彼ら/彼女らの受けた被害と,現在日本にいるハンセン病元患者の受けた被害は何が違うのだろうか。強制収容したのは同じ日本政府である。それなのに,なぜ,台湾楽生院と韓国小鹿島は補償の対象外になってしまったのか。 厚生労働省は,「ハンセン病補償法」の対象となる施設,対象となる人を告示している。対象となる施設は,まず,国立のハンセン病療養所だが,それと同視できる療養所ということで,私立のハンセン病療養所も,米軍占領下に琉球政府が設置したハンセン病療養所も含まれている。そして補償金の支給対象者は,国立ハンセン病療養所その他,厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所(国立ハンセン病療養所等)に入所した者となっている。なぜ,旧植民地の療養所である楽生院と小鹿島の入所者は対象とされないのか。「補償法」を審議したときの国会の議論では,楽生院と小鹿島は想定していなかったからだ,と。――でも,これは,あくまで国側の言い分だ。 |
| 2 先輩と井戸端会議 裁判の内容はさておき,わたしは訳が分からないまま,高野さんと香月さんといっしょに列にならんでいた。9時55分ごろに香月さんが「もう入れないね。1時間くらい前に行ったほうがいい,っていわれた気がする」と言った。え,言われたっけなぁ? と思いつつ,このままわたしはどうなっちゃうんだろうと考えた。高野さんはこの長蛇の列の先頭を見に行き,戻ってくると「けっこう若い人もいたよ」と教えてくれた。わたしも続いて見学に……。 ズラーッとならんだ列は門の“すぐ近く”まで続いていた。なぜ“近く”までなのかというと,門の前は全部報道陣が陣取っているからだ。報道陣を見た瞬間“はじめてこんなにたくさんのカメラを前にして体感せずにはいられない”と思い,心臓をバクバクさせながら門と報道陣の間をゆっくり歩いて横切ってみた。報道陣に囲まれるってどんな感じなんだろう……それを感じてみたかった。べつに撮影しているわけではないけれど,ピントを合わせたりするために,すべてのカメラが門のほう(わたしのほう!)に向いている。息が止まるような圧迫感。すごいっ!! の一言。せっかくだから,折り返してもう一度通る。やっぱりすごい! ついでなので,横断幕も拝見。「国は謝罪しろ」というのが多いが,「海は涙/○○は血」(○○の文字は,忘れた!)のようなすごく強いメッセージもある。道を歩く人は何があったんだ,というような顔つきで横断幕をチラチラ見ていた。 判決が出るまでとくにすることもないので,香月さんと高野さんの話を聞いていた。なにせ,在日コリアンの当事者とこの問題で修士論文を書いたというおふたりなので,どんな話をしていても在日コリアンの話になる。話を聞いていて,きょうは在日コリアンの人もたくさん来ているということを知った。はじめはみんなハンセン病関係の人だと思っていたのだが,そういわれると今日の原告は台湾や韓国のひとたちなので,そのつながりで応援にくる人もいるにちがいない。「○○さんも来てる」とふたりの知り合いも結構いたようだ。周りは人権問題に精通している人ばかり。それに比べてわたしは,香月さんたちの問いにも答えられない状況。今回こそ,すごく場違いなところに来ちゃったよぉ,と気持ちが落ち着かないまま時間を過ごした |
| 3 判決が出て涙して 最初の判決は韓国小鹿島。日程もよくわからないし,判決ってどう言い渡されるのかも分からないので,お姉さんたち(高野さんと香月さん)が集めてくる情報に頼ってばかり。結局わたしがしたことは,中の様子を想像することと,お姉さんたちの話を聞くことだけだった。周りの人たちは普通におしゃべりしていた。だれもが勝つと思っていたからだ。 いきなり門のほうが静かになった。わたしたち,門から離れ組は何があったのかと逆にざわめく。だれかがメガホンで話をしているが聞こえない。結果が出たようだ。「どうした?」人伝えにやっと情報がくる。「不当判決だ……」。一気にシーンとなった。メガホンの声を聞くまでは信じられないといった状況。「不当判決!!」メガホンの声もはっきりそういった。「不当判決だって!!」次々に声が出る。わたしは困惑した。“勝訴”でないのはわかるのだが,“不当判決”ってどんな意味なんだ??? 香月さんもなんだろうといった様子。みんな勝つと思っていたので,聞いた瞬間,落胆というよりも,驚きのほうが強かった。「じゃあ台湾もだめだ……」というあきらめの声が聞こえた。絶望を感じた。絶対におかしい! 誰もがそう思ったにちがいない。でも,結論はでてしまったのだ。あとは台湾の判決をじっと待つしかない。(あとで理解したけれど,やはり「不当判決」っていうのは,「敗訴」を意味していた。でも,「敗訴」って言わないで,あくまで「不当判決」って言うんだ。) 小鹿島の判決で少し空気が重くなった。楽生院もダメなのかな,心配で心配でしょうがない。近くにいた女性が「ちょっとこれを持ってて」と言って横断幕を渡してきた。“国は謝れ! 国は償え!”そう書いてある横断幕だった。朝来たときは,たくさんの横断幕に抵抗感があったけれど,このときはもう慣れていたので受け取った。というよりも,応援団に参加できるぞ,という気持ちが強かったのだと思う。勝ちたいな,勝ってほしい……。 いきなり爆発するように「キャー!!!」という歓声が門のほうで沸き起こった。と同時に拍手の嵐。なんだ,なんだ,と離れ組はまたざわめく。でも今回はすぐ情報が伝わってきた。「勝訴です。みなさん,拍手をしてください!!!」みんなが喜んだ。みんなが安心した様子で「よかったー,よかったー」と拍手をする。でも,その歓声も拍手も長くは続かなかった。じゃあなんで小鹿島はダメだったのか……と疑問がでてくる。喜びと同時に悲しみを味わう。複雑な2つの判決。「裁判官が違ったから」という情報が入ってきたけど,やっぱり納得いかない。「でも,一歩前進だよね」と香月さん。確かにそうだ。誰もがそう思っているのだが,複雑な思いが消えることはなかった。“勝訴”と書かれた紙を弁護士のひとが後ろまで見せに歩いてきたが,嬉しいけれど,心の底から喜べなかった気がする。泣いているひともいたようだ。でも,それは嬉し涙なのか,悔し涙なのか,それとももっと別のものなのか,それはわからない。笑顔のひともいるし,暗い顔の人もいる。なんと複雑な結果なんだ。 「弁護士会館にて報告会があります」と移動を促すアナウンス。どっちにいったらいいのかとみんな右往左往していた。バスに乗る人もいるようで,バスに向かう人と弁護士会館に向かう人が混ざってしまい,みんながウロウロしていた。高野さんは門のほうへ行ってしまったので(だれかと待ち合わせしていたみたい),あとを追うように香月さんとわたしも門へ向かう。門の前には相変わらず報道陣がカメラを担いでお仕事中。その後ろ(道路!)では,7人ぐらいチョゴリ姿の“おばあさん”が並んでいた。高野さんがやってきて「ハンメ(おばあちゃんの意味)たちが歌を歌うって」「ハンメらしいね」とお姉さんたちが話していた。「歌を歌うんですか!?」「うん。聞いていく?」「はい」ということで,ハンメの歌を聴くことになった。ハンメたちが歌ったのは“トラジ”と“アリラン”の2曲。手拍子に合わせて繰り返し繰り返し歌い続けた。聞いた感じ,悲しい曲ではなさそう(故郷の歌みたい)。優雅で落ち着く曲だった。お姉さんたちも口ずさんでいたので,なんか楽しい気分になってしまった。歌いながら涙を拭くハンメがいた。胸がズキンとした。明るく振舞っているのかな? よくわからないけれど,なんとなく歌声も切なく聞こえた。 |
| 4 聞き逃した報告会 弁護士会館での報告会は,わたしとしてはいちばん気合いが入る“予定”だった……。法廷の中の様子がどうだったかも聞けるし,判決の理由も分かりやすく説明してくれると思っていたからだ。しかし,今日はそううまくいかなかった。まず,移動に時間がかかってしまい,弁護士会館502号室に着いたときにはすでに話が始まっていた。そして,部屋は広い,ひとはいる,話している弁護士さんの声は小さいで,なかなか聞き取れない。ほんの少しだが,聞き取れた内容から推測すると,小鹿島が敗訴した判決理由は,“小鹿島は外地(日本国外)の施設であって,内地(日本国内)のものではないからだ”そうだ。 (弁護士さんの説明を聞いてもよくわからない理由は,後日,よくわかった。10月27日の「社会学演習」の時間に,福岡安則先生が,楽生院訴訟の「判決要旨」とソロクトの「判決要旨」を持ってきて,読み上げてくれた。楽生院のほうは,明快で,聞いただけでわかった。ソロクトのほうは,グジャグシャした,悪文の最たるもの。もっとも長ったらしい文章は,ワン・センテンスで20行,じつに687字。――字数をいちいち数えるなんて,福岡先生って,ヒマなんだ!――長いだけでなくて,文章の構文もひどい。「そこで,……から検討するに,原告らの主張は,要するに,……合理的な理由がないから,……されるべきであるというものであると解されるところ,被告の説明を総合すれば,……と考えられることから,……と解されるところ,……を踏まえると,……といえるのに対し,……既に指摘したとおりであることや,……などを考慮すれば,被告が……〔し〕なかったことが明らかに不合理であり,平等原則に違反するとまでいうことはできない。」こんなの,読んだって訳がわからなくて当然,耳で聞いて,わかるわけないよ!) いっぽう,なぜ楽生院は勝訴したのかというと,外地や内地にかかわらず,受けた被害,苦しみ,悲しみには変わりがないという理由のようだ。小鹿島の裁判官とは違って,楽生院を担当した裁判官は,日本政府の統治下で隔離政策があった事実とそれに苦しんだ人々の気持ちに重点をおいたように感じられた。 ここで,弁護士会館502号室で,福岡先生に会った。用事があると言っていたから,てっきり来ていないものと思っていたので,かなり驚いた。共同通信から判決後のコメントを求められたので,法廷内で傍聴していたのだという。でも,先生は次の仕事〔=千葉県人権施策推進委員会の委員長として会議に出る用事〕があるらしく,もう帰る様子。最後に「よくわからないままでいいから,フィールドノートを書くんだよ」とだけ言って去っていった。なんか気持ちが軽くなった。わたしの都合よい解釈では「書くことに意義がある。内容はともかく!」と聞こえた。聞き逃しているところが多かったのでホッとした。 |
| 5 天まで届く声で 弁護士会館を出たのが11時30分。これから厚労省の前で抗議運動をする。抗議運動に参加するってどんな感じだろう。国を相手に抗議するなんてちょっと気が引ける。でも“一生に一度かもしれない!!”そう考えるとこれも貴重な体験だ。行くしかない。 厚労省は弁護士会館の隣で,すでに人が集まっていた。門の前には仁王立ちした警備員が偉そうにして見える。その警備員の前にわたしたちも並んでいった。傍には大きな宣伝カーが用意され,みんな急いで横断幕をつなげて準備する。歩道は狭いので横に大きく広がって並んだ。その長さは約20〜30メートル(推定)。ランチタイムなので次々と人が出てくる。この人たちに向かって,わたしたちはメッセージを叫ぶのだ。 ここで抗議運動する意味は大きく2つある。一つは楽生院の判決について,控訴しないように訴えること。もう一つは不当判決だった小鹿島について,もういちど裁判をやり直せと訴えること。とはいっても,みんなで声を張り上げるのではなく,キーパーソン(?)一人一人がリレー演説をするかたちなので,わたしはただ,立っているだけの人になってしまった。 トップバッターは谺雄二さん。前に谺さんの本は読んだので,お目にかかれてすごく嬉しかった(声はかけられなかったけれど)。谺さんの演説は一番印象的だった。すごく力強い。「恥を知れぇぇえーっ!!! 日本の恥だぁぁぁあーっ!!!」マイクの力だけじゃない。本当に腹の底からでている声だ。天まで届きそうな大きな声で谺さんは叫んだ。周りでみんなが「そうだそうだ!」と叫ぶ。本当にそうだ。恥だ。絶対におかしい。目の前を「どうかした?」といった感じですまして通り過ぎる厚労省の職員に憤りを感じる。この日のために,70歳80歳のおじいさん,おばあさんが日本へやってきた。体調だって悪くなってきているし,お金にも余裕がない。みんな必死な思いでここへきたのに,この結果。これからもういちど裁判をやる時間なんてどのくらい残っているのだろうか。日本が人生を奪ってしまった人々なのに,なぜ救済をしないのか。一言じゃ言い切れないその思いを,谺さんを先頭に,次々と声にする。「俺たちは死ぬまで戦うぞーっ!!」力強い声が何度も何度も響き渡った。 演説者には,わたしもお会いしたことがある退所者の会の川邊嘉光さんと平野昭さんもいた。おふたりとも元気そうで安心した。平野さんは去年から社会復帰をしたそうだ。わたしは帰る時間が近づいていたので,その前にと思い挨拶に行った。チキンなわたしが一度しかあったことのない人に話しかけるのはずいぶん勇気のいることだった。「平野さん。埼玉大学の阿部です。」これで伝わったのかどうか分からないが,平野さんはニッコリ笑って「こんにちは」といってくれた。やさしい!!「お身体,大丈夫ですか?」というと,「社会復帰したんだもの。そりゃそうだよ」といわれた。ごもっとも。 「進んだ医療のおかげでね,僕は生かされたの。だからこういうふうに社会復帰して,あとのひとが続くようにしたいんだ」(たぶん“僕”って言ったと思う)。 その言葉に衝撃を受けた。医療っていうのは人を生かす(助ける)ためにあるんだ……。うまく表現できないけれど,この言葉を聞いて胸がいっぱいになって涙がこぼれそうになった。なんでか説明できないけれど,胸が熱くなるってこんな感じだと思う。 ハンセン病元患者さんたちは療養所できちんとした治療を受けることができなかった。その結果,身体が不自由になって苦しんでいる人や自殺した人がたくさんいる。人を死に追い詰めるような治療を許してはいけない。ましてそれは療養なんかじゃない。なんて残酷なことをしてしまったのだろうというやりきれない思いと,せめてこれからの人生だけでも悔いなく生活できるように協力しなくてはいけないという焦りがでてくる。平野さんはみんなが社会復帰できるような社会をつくることを自分の使命としているようだ。そして,実際,その使命を果たすためにまず自分が社会復帰をし,周りのみんなはそれを見てがんばろうとしている。小鹿島裁判もハンセン病問題もこのままで終わらせちゃいけない。終わっちゃダメなんだ。きょうの裁判は,ハンセン病元患者さんたちの思いを強く感じることができた。いまさらだがやっと,「検証会議」の聞き取り調査のお手伝いで自分のおこしてきたテープ一本一本の重みを実感することができた。 |
| 6 おまけ(黄色いチラシが描いていた判決) 弁護士会館で夕方の報告会のチラシをもらった。なぜか,すべて,上がちぎられていた。もらったときは「怒って破っちゃったのかな」と思っていたけど,あとからその破れた部分には「ソロクト・楽生院ハンセン病訴訟勝利判決下る! 国=厚労省は控訴するな!」と書いてあったことを知った。それだけみんなが確信していたことなのに,どうしてとしかいいようがない。裁判官でこんなにも判決は変わってしまうのか。裁判は運なの?? 破られたチラシに悔しさと悲しさがにじみ出ていた。 |