医療過誤訴訟

正式に和解!
ー全生園医療過誤訴訟ー
1月31日、午後1時30分、国側と山下さん側の和解手続きが終了しました。和解の条項は、
1. 国は損害賠償金3000万円を支払う。

2. 山下さんが多磨全生園に要望した事項について、裁判所は以下のように提案する。
 @全生園におけるインフォームドコンセント、セカンドオピニオン、カルテ等の診療・医療情報の開示等の患者本位の医療を今後も尊重してゆく。
 Aハンセン病医療の質の維持向上、および医療安全管理を図るための相談体制の確保に引き続き努力する。
 B財団法人日本医療機能評価機構に受診の申し込みをする。(平成18年度中に審査を受ける)

3. (1)和解の席上で、全生園園長は上記@ABを含む所感を表明する。
   (2)全生園園長は、上記所感を全生園において公表する。
   (3)所感の趣旨が今後の全生園で生かされるよう努め、当分の間、園長交代等の 際に適宜な処置をとる。

 以上の和解条項を読み上げて、双方が合意したあと、裁判長は、「この趣旨を全生園で末永く引き継ぐよう協力してほしい」と国側に要望しました。 続いて、現在入院中の多磨全生園園長に代わって、副園長が所感を代読。2月1日午後に職員を対象に、午後7時に入所者に向けて園内放送で所感を表明すると約束しました。
 記者会見では、内藤雅義弁護士が山下裁判の経過と意義を次のように説明しました。「全生園での医療過誤を訴え、東京地裁で原告全面勝訴判決を勝ち取った。国が控訴した後、山下さんは療養所の医療の改善と、患者の権利の保証を求めて闘ってきた。そのために第三者機関(日本医療機能評価機構)の審査を受けて欲しいという要求も、和解案の中に取り入れられたので、和解に応じた。この裁判が療養所全体の医療改善へつながるよう要望する」。

 山下さんは裁判を振り返って、「最初は、個人的な裁判で、小さな出発だと思っていた。でも私以上に苦しんでいる人が全生園にいることを知った。これからは弱い人を見つめる医療になるよう改善されることを望んでいる」と、淡々と感想を言いました。
 全原協の代表として立ち会った国本衛さんは、「これまで医療過誤は表面に出てこなかったが、ミスは数多くあった。この裁判は、ハンセン病医療の遅れと、誤っていたことを象徴している。日本医療機能評価機構の審査を受けることを高く評価し、和解を歓迎する」と述べました。
神美知宏・全療協事務局長は、「入所者代表として山下さんが闘っていたのに、非難されたのは残念。療養所の医療が近代化から遅れていたし、厚労省はその上にあぐらをかいていたことが明白になった。この裁判が療養所の未来につながることが山下さんの究極の目標である。全療養所で日本医療機能評価機構の審査を受けて、ハンセン病医療にメスを入れ、近代的な医療を療養所でもやるよう要求する」と決意表明しました。
 所感の放送はテープで
 2月1日午後7時15分に、副園長が代読した青崎園長の所感が放送されました。テープに吹き込んだものでした。園側はもっと誠意を示してもらいたいものです。支援者は今後とも園の動きを見守ってゆきましょう。

ー多磨全生園医療過誤訴訟ー
勝訴的和解!
 12日、国立ハンセン病療養所多磨全生園の医療過誤訴訟の和解が成立しました。山下ミサ子さん(仮名)は東京地裁に提訴して以来、多くの皆さんの支援を受けてきましたが、山下さん側と国側が、東京高裁の和解案を受け入れました。
 1、国は医療ミスがあったことを認める。
 2、国は山下さんに3000万円の賠償金を支払う。
 3、多磨全生園の医療を審査するため、第3者機関の日本医療機能審査機構に調査を依託する。
 4、多磨全生園園長が、この裁判の経過、和解について園内放送をして、入所者に報告する。

 国を訴えたことで非難されてきましたが、四面楚歌の中、山下さんは信念を曲げることなく、今日まで闘い抜きました。その意志の強さが支援者の心に響き、全国に支援の輪が広がって、こういう結果をもたらしました。
山下さんは、「ここまで来られたのは、皆さんのおかげです。心から感謝しています」とうれしそうでした。


多磨全生園医療過誤裁判の控訴審
 8月24日、東京高裁で多磨全生園医療過誤裁判が結審しました。11号台風が接近し、東北から九州にかけて大雨になる恐れもある中、今回も50人以上の人たちが駆け付け、傍聴席はいっぱいになり、廷内に入り切れない支援者もいました。
 裁判では山下さんの代理人、内藤雅義弁護士から最終準備書面と、前回国側から出された、3人の医師の意見書に対する並里まさ子医師(前群馬・栗生楽泉園副園長、現在は所沢市のおうえんポリクリニック院長)の反論が提出されました。内藤弁護士は最終準備書面について次のように説明しました。


 1 早期に再発の診断をし、抗ハンセン病薬による治療をしていれば、再発後の後遺症はなかったのに、担当医が並里医師に替わるまで適切な治療が行われなわれず、山下さんが重い後遺症を負った。
 2  全生園の医師、とりわけ山下さんを担当した小関正倫医師が診断を過ったまま、漫然と最後まで治療を続けた。再発で増殖した菌に抗ハンセン病薬を使わず、むしろ身体の抵抗力を奪い、菌の増殖を進めるプレドニンを投与し続けた。
 3  全生園で、このような医療とは言えない行為が長年にわたって放置されてきたのは、らい予防法の絶対隔離政策によるもので、これについては東京地裁が適切な判決を出している。
 4 国側は控訴理由をいろいろ挙げているが、全生園の担当医師の過失は明らかであり、閉鎖医療の中で障害を悪化させ、更には死亡さえしていった患者が少なくない
 5  山下さんにとっても、入所者にとっても、園内の医療従事者にとっても、全生園が明るく普通の医療機関になるための判決を切望する。
 

 9月9日に非公開で、双方の意見を聞くための話し合いがもたれることになりました。
 控訴審後の報告集会では、小関医師が7月31日付けで全生園を辞職したことが報告されました。今回の裁判では、国の責任は問われても、小関医師個人の責任は問われません。顔の表情がなくなり、歩くのも痛々しいほどの後遺症を山下さんに負わせた小関医師の責任は、どうなるのでしょうか? 
全生園医療過誤訴訟の
第二回控訴審
 6月22日午前10時半から、全生園医療過誤裁判の第2回公判が東京高裁で開かれました。あいにくの雨にもかかわらず、遠方から傍聴に来た大勢の支援者で、法廷はいっぱいになりました。今日は、控訴した国側から準備書面と医師3人の意見書、被控訴人(山下ミサ子さん)側から和泉眞藏医師の意見書が提出されました。
 公判後に開かれた報告集会で、国側の3人の医師から出された意見書は@一般論を述べているにすぎない A当時の全生園の医療水準は世界的レベルではないが、一般的な水準であったというが問題点のすり替え B時効の起算点をズラそうとしている、と弁護団から説明がありました。
 集会に参加した森元美代治さん(退所者)は、国側の医師が意見書で主張しているように、療養所が一般的な水準の治療をしてくれていたなら、我々は目が見えなくなったり、手足が不自由になったりすることはなかったと訴えていました。また、集会の参加者から、全生園の中で、この裁判に関する情報がほとんど知らされていないという声が出ました。
 次回期日は8月24日です。ここで結審になりそうです。
 インドネシアの和泉眞藏先生と並里まさ子先生から、支える会あてにメールが届いています。了解頂きましたので、ご紹介します。
支える会の皆様ご苦労様です。
6月22日の法廷がどうなるか、遠く赤道の南から見守っています。
 国から準備書面(1)が出てきて、今回の事案については全く医療過誤はなかったと述べています。また、それと一緒に長尾青松園長、尾崎愛生園皮膚科医長、石井部長から意見書が出てきました。いろいろ考えさせられる文章です。
 意見書の内容については今日の法廷でも明らかになるでしょうし、山下さんの側からの反論書も出されるので検討して頂けたらと思いますが、私の想いは、なぜ彼らが国側にたって意見書を出したのだろうかという点です。ここには何か深い意味合いが潜んでいると思うのです。
 石井さんはある意味では確信犯ですから他の2人とちょっと違うのですが、あとの2人について私は、彼らなりに患者のことを思う良心的な医師だと信じています。また、今ここで国側に立って証言しても、彼ら自身には何のメリットもないだけでなく、悪くすれば臨床ハンセン病医としてのキャリアーに取り返しのつかない傷が付く危険性すらあります。それなのになぜ、、、という想いが心からはなれません。
まだ十分考えていないのですが、今のところ思いつくのは、国賠訴訟以降の一連の流れに対して快く思わない気持ちが、彼らと厚労省の役人に共通しているからではないかという答です。そのように考えて準備書面や意見書を読んでみると、彼らの真意が見えてきます。例えば、彼らは日本のハンセン病医学は一生懸命やったし、諸外国から立ち後れているわけでもないと言います。確かに彼らなりに一生懸命やったのでしょうが、ハンセン病医療そのものが他の一般医療から隔離されていることから生じる限界は明らかです。中にいて見ていると気づかないのでしょうが、外から見れば事態は明らかです。熊本判決はそのことを正しく見抜いていました。日本のハンセン病専門家に求められるのは視点の転換です。
 国は準備書面の中で、一般の医師に求められる業務上の義務は世界的水準ではなく、もっと一般に普及したレベルの知識だと言います。最高裁判決がそういっていると言います。医療現場にいる者としては、この最高裁の判断は正しいと思います。しかし、次のような例を考えたら、この一般論がハンセン病には適応できないことが分かると思うのです。
 例えば、癌について考える場合、日本の全ての医師に世界的なレベルを求めるのは明らかに無理です。そのために国にも都道府県にも癌の研究所があり、大学でも世界の研究の成果を見ながら学問を発展させています。そのような支えがあるから、一般医は専門家に学びながら日常診療ができるのです。
 しかし、ハンセン病の場合は療養所の外にそのような施設はありませんから、療養所の医師たちが最高の医学的知識と見識を求められるのです。このような事態が生じたのは明らかに絶対隔離政策の結果です。隔離政策に触れた一審判決の判断は正しいのです。他の病気と同じように、ハンセン病医療についても外国のデータを盲信することは避けなければなりませんが、かつて日本のハンセン病医が陥ったような独善と非科学性は絶対に避けなければなりません。ハンセン病の治療について言えば、たくさんの臨床経験をもつ流行地の医師の方が日本の医師より優れていることが多いのは事実です。そうした経験を学びながら日本の患者にあった治療体系を作らなければなりません。
 厚生労働省は、ハンセン病は治る病気だと国民に言い続けています。その国の施設で80年代から90年代にかけて山下さんの病気は最悪の状態にまでなったのです。治る病気がなぜ治らなかったのか、国も専門家もそれを真剣に考えなければならないと思うのです。裁判で争っている暇はないはずです。
 2000年2月、国賠訴訟の訴状に対して国が反論を書いてきました。それを読んだときに私が最初に思ったのは、もし国の主張通りだとすると、患者さんや家族を襲ったあの悲劇は何だったのだろうという想いでした。どこかが間違っているーーそう思ったのです。それが私を証言台に立たせました。
今回も同じ思いを持っています。当たり前のことが当たり前でないのはどこか根本が間違っているのです。それを正すためにも闘うしかないですね。頑張りましょう。          
 並里まさ子先生(おうえんポリクリニック)からのメールです。
 支える会のご支援、本当にありがとうございます。
 山下さんの訴えている事件は、何故裁判になりうるのか解らないほど明白な事件です。 しかし長い間闇に隠れていて、やっと日の目を浴びることになりました。そして当然の事ながら全面勝訴の判決を得たにもかかわらず、国の威信を賭けて控訴に踏み切った経過は、まさに日本のハンセン病界ならではの現象だと思います。
 全生園に勤務した9年3ヶ月は、信じられないことの連続でした。山下さんに、勝るとも劣らない悲惨な経過を辿った人達は、私の知るだけでも20人を超えます。しかし裁判に立ちあがれるのは、恐らく山下さんが最初で最後でしょう。
 国側が、3人の意見書を提出しました。初審で証人に立った人物の意見書は問題外で無視するとして、他の2人は療養所の所長と日本ハンセン病学会において臨床のトップとされてきた人物です。国は療養所所長連盟とハンセン病学会を代表する人物を得たことになるのでしょう。しかし内容は全く的外れで、何故これが意見書として出せるのかすら判りません。正しく普通に判決が下されるなら、山下さんの訴えは全面的に認められるはずです。
 常々思うのですが、政府は、人命にはさほど頓着しませんが、世論は怖いはずです。私達が力を合わせて大きな世論の波を作り、厚労省の目を覚まさせることが、この裁判の行方に大きく影響すると思います。
多磨全生園医療過誤訴訟
全生園に安心して受けられる医療体制を!
山下ミサ子さんが訴え
 4月27日午後1時半から、東京・霞ヶ関の東京高等裁判所825号法廷で、多磨全生園医療過誤訴訟の第1回控訴審がありました。103号法廷と比べて狭い廷内は傍聴者で一杯になりました。全生園自治会の役員2名の姿も見られました。冒頭、初めてNHKのカメラが入り、2分間撮影が行われ、TVニュースで放映されました。
 被控訴人・山下ミサ子さんは意見陳述で次の3点を強く訴えました。
@この裁判をきっかけとして、入所者や退所者が安心して治療を受けられるだけでなく、職員も安心して働ける医療体制を全生園につくってもらいたい。 A地裁で原告全面勝訴判決が出たにもかかわらず、国が控訴した事は許せない。国は、医療過誤を正当化し、原告に非があると非難しているが、この裁判は熊本判決の延長線上にあると思っている。B全生園の入所者には、この裁判は「金目当てだ」「国のお世話になっているのだから、裁判をすべきでない」と言う人たちがいるけれど、そう言う人たちのためにも、おかしいことは「おかしい」と言えるようにしたい。全生園の医療改善につながる判決を求めたい。
山下さんの代理人の内藤雅義弁護士は、「今でもハンセン病の既往歴を持つ人たちは、息をひそめながら通院している。全生園での同種の事件が20件はある。徹底してその検証をすべきだ」と述べました。
 公判後の報告集会では、「全生園でこの医療過誤裁判がタブー視され、一部の人に陰口でしか伝わっていない。腫れ物に触る感じなので、なんらかのかたちで、正しい情報を入所者に伝える必要性がある」という点で、参加者の意思が一致しました。

全生園医療過誤事件と療養所医療、そしてワーカー

弁護士・内藤雅義
去る1月31日、東京地方裁判所民事30部(佐藤陽一裁判長)は、原告山下ミサ子(仮名)さんと被告国との間の国立ハンセン病療養所である多磨全生園における医療過誤事件について、原告全面勝訴の判決を言い渡した。判決は、原告の主張したほぼ全期間にわたる継続する医療過誤を認定し、その背景に「日本におけるハンセン病医学の研究及び診療が、……閉鎖的な環境の下にとどまった結果、その歩みを停滞させてしまったという法制度に由来する構造的な問題が背後に横たわっている」と指摘した。このような閉鎖性は現在も続いている。例えば、原告山下さんの主治医であった医師は、法廷を傍聴に行った入所者に対し、「傍聴した患者は診ない」といった趣旨の暴言さえ吐いているのである。
また、このような構造的な閉鎖的環境における医療の遅れは、ハンセン病医療にとどまらず、全医療分野に及んでいる。ところが、ハンセン病療養所は、その実質が生活の場であるにもかかわらず、形式的には医療機関であるため、入所者には医療機関選択の権利がなく、主治医が転院先を指定する。また、入所者はその障害や外部医療機関における偏見差別への不安等から入所者自身も外部医療機関への診療をなかなか受けたがらないという状況が続いている。そのため、ようやく外部医療機関に療養所医師が紹介したときには、既に手遅れといった事例が多数存在している。更に加えて、ハンセン病既往者の減少に伴うハンセン病療養所の将来について、国は現在いわゆる「立ち枯れ」政策をとっている。そのためますます療養所の医療の貧困化に拍車がかかり、平均75歳を超え、身寄りがなく、障害を持った入所者の将来、とりわけ、老後医療の将来への不安は極めて強い。
他方、退所者、非入所者という療養所外に暮らす人々にとっても老後の医療、そして介護は、重要な課題である。家族がいない、障害がある中で、自尊心を傷つけられたハンセン病既往者の多くは、差別、偏見への恐れから、一般疾病についてさえ、一般の病院にかかりたがらない。また、介護保険の受給についても多くは諦めている現状にある。そのため、必然的に療養所における医療に頼る形となる。ところが、前述のように、ハンセン病療養所の医療の質は極めて劣悪なのである。
2001年5月の熊本地裁判決が国のハンセン病政策の誤りを厳しく批判したことを受けて、2001年12月、国は、統一交渉団との間の議事確認において「社会の中で生活するのと遜色のない水準を確保するため、入所者の生活環境及び医療の整備を行うよう最大限努める」との約束をした。今、問われているのは、「社会の中で生活するのと遜色のない水準」の医療をどうするか、その点である。
東京地裁判決が指摘したように、ハンセン病医療を含む療養所医療の遅れをなくすためには、療養所医療の閉鎖性を打破する以外にない。1療養所内ではもちろん、療養所相互間だけでも、最善の医療を完結することは不可能と言ってよい。(注1)その場合に、入所者に最善の医療を提供するための方策をどうするのかが問われることになる。
そこで、現在、弁護団で検討されているのは、一方で、療養所における@プライマリーケア、Aターミナルケア、Bリハビリテーションを充実させ、他方で、それ以外の医療においては現在、「委託診療」といわれている外部医療機関における医療を積極的に位置づける方向である。
入所者が外部医療機関を受けたがらない理由の中に、知覚神経マヒへの外部医療機関の無理解がある。そして、退所者が一般医療機関や介護保険を受診できない最初の障害がハンセン病の既往をうまく伝えられないことにある。これらの重要な一歩を助力するのが、ソーシャルワーカーの役目ではないだろうか。熊本地裁判決後、少しずつ、ハンセン病既往者に対する環境が変わりつつある。その状況変化を加速するために、ソーシャルワーカーが担うべき役割は非常に大きい。
 (注1)従前にハンセン病療養所では、療養所外に患者を転送せず、療養所間で(たとえば栗生楽泉園から全生園へ)転送するようなことが行われていた。

多磨全生園医療過誤訴訟
厚労省と法務省に、控訴取り下げ要請の 署名 8064人分を 提出しました。一カ月という短い期間でしたが、多数の署名を集めることができました。ご協力ありがとうございます。

7日午後4時、原告の山下ミサ子さん、弁護士、支援者が、厚労省に控訴取り下げ要請の署名
8064人分、(用紙1639枚)を提出しました。
 この席で山下さんは、今でも後遺症で顔の痛みに悩まされていること、日増しに体が弱り、歩行が困難になっていることなどを挙げ、国が控訴を取り下げ、一日も早く、元の平穏な生活に戻れるようにと訴えました。
 また入所者の一人は、ハンセン病は治る病気とよく言われるが、治療が間違っていれば治るものも治らない、我々は医者を選べないと入所者の立場を説明しました。
 支援者の一人は、この医療過誤は過去のものではなく、現在も進行中であると厚労省側の理解を求めました。厚労省に提出後、全員で法務省に行き、コピーした署名を渡しました。
写真は厚労省医政局、外山千也・国立病院課長に署名を渡す内藤雅義弁護士(左)

 毎日新聞 国立ハンセン病療養所「多磨全生園」(東京都東村山市)で適切な医療が受けられず重い後遺障害が残ったとして、元入所者の女性(67)が国に損害賠償を求めた訴訟で、女性や支援者が7日、控訴取り下げを求める8064人分の署名を厚生労働省に提出した。国は、同園医師らの過失を全面的に認めた1月の東京地裁判決を不服として控訴した。女性らは「控訴を取り下げ、1日も早く治療体制を充実させなければ、退所者や入所者は安心して暮らせない」と訴えたが、同省国立病院課は控訴取り下げの考えはないことを説明した。

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            山下ミサ子さんからのお礼状
 拝啓
 皆様にはお元気で毎日をお過ごしのこととお喜びを申し上げます。
 さて、私の医療過誤裁判で、一審での判決では全面勝訴を遂げたことは皆様すでにご存知のことと思います。しかしながら、被告(国側)は一審の判決を認めず控訴に踏み切ったのです。日本の裁判制度は三審制ですので控訴は仕方のないことですが、被告は己のミスを認めようとせず、あまねく悪を何とか正当化しようともがいている姿は醜くもあり、哀れにも思えます。
 しかし、控訴された以上は一審に引き続き勝訴を勝ち取るまで頑張らなくてはなりません。これから二審で審議されることになりますが、その第1回公判が4月27日(水)午後1時30分より、高等裁判所825号法廷で行われることになりました。私といたしましてはこれ以上の裁判を続けることは本意ではありません。理由としては、私の年齢と医療過誤における身体的後遺症による大変な疲れと、加えて主人が昨年6月に肺がんにかかり、ステージ4の末期と診断され現在も入退院の繰り返しで、抗がん剤投与によりかろうじて延命しているという状況です。
 このような私的な理由もあって、国側が控訴した直後から何とか控訴を取下げてもらおうと、真宗大谷派の酒井義一様・八重樫信之ご夫妻・東日本退所者の会の川邊嘉光様が代表で控訴取下げの署名活動を展開していただきました。お蔭様でたくさんの署名が日本全国から届けられ、ようやく4月7日、厚生労働省と法務省に提出することができました。私たちの気持ちが国側にわかってもらえず、あくまで争うということであれば、今後は高等裁判所にて新たに審議されることになりますが、国側の態度しだいでは私も内藤雅義弁護士をはじめ新たな弁護団を結成して対決していかなければなりません。
 二審でもなんとしてでも勝訴を勝ち取ることが、これまで私を支えてくださった大勢の方々に対しての恩返しと考えています。また、先の熊本での国賠訴訟の全面勝訴をより一層確かなものとすると同時に、私たち元患者・今現在患者として治療している方々が、人生の終着駅にたどり着くまで心身ともに豊かな人生を過ごせるよう、最後まで頑張りたいと思っています。
 これまでご支援ご協力いただきました皆様に、あらためまして心より御礼申し上げます。そして、これからもどうぞ変わらないご支援とご協力を重ねてお願い申し上げます。私も主人と一緒に最後まで頑張ります。
末筆ではございますが皆様のご健康をお祈り申し上げながら、御礼のご挨拶とさせていただきます。 敬具
                2005年4月8日           山下 ミサ子

国が控訴決定
ご支援、お願い!
多磨全生園医療過誤訴訟


 国立ハンセン病療養所多磨全生園の元入所者で、現在退所者の山下ミサ子(仮名)さんは、1981(昭和56)年ごろ、再発の症状が出て以後、十年にわたる医療ミスにより、後遺障害1級の障害者となってしまいました。
 山下さんは、「全生園の医療を良くするためには、裁判をするしかなかった。医療ミスの被害者たちを闇に葬り、入所者や看護師に対するセクハラ行為を繰り返し、患者蔑視の治療態度を改めない主治医の小関正倫医師は、人間として許すことができないので、辞めさせたい」と勇気を奮って、日本の裁判史上初めて、「多磨全生園医療過誤訴訟」を提訴したのです。
  

 東京地方裁判所は、1月31日、原告・山下さんの言い分を全面的に認め、被告・国に原告の請求額(5000万円)全額を支払えという判決を言い渡しました。「主治医には診療上の過失があり、治療の放棄に等しい、むしろ病状を悪化させる診療行為だった、医療過誤は10数年間途絶えることなく続いていた。被告・国が時効を主張するのは、時効制度の趣旨に反する」と国を糾弾し、原告は全面勝訴判決を勝ち取ることができました。
 判決が出て以来、原告、弁護団、支援者たちは、被告・国に控訴しないよう厚労省や法務省に要請行動を続けていましたが、2月9日、国は控訴しました。

 山下さんは、「国は信用できないと思いました。自分が裁判所に言ったことが厚生労働省に伝わっていないことがとても悲しいです。正しいことがきちんと認められるまで、皆と一緒にがんばります。どうか皆さん、助けてください。私は最後まで闘います」と、決意を新たにしています。
 これから控訴審の闘いが始まります。どうか山下ミサ子さんをご支援くださいますようお願いいたします。

   
    皆様、署名にご協力頂きありがとうございました。3月31日が締めきりです。
まだ詳しい数字は出ていませんが、わずか一か月の間に七千人を超えそうです。
、山下さんにとって、なによりの励みになります。 
    
     山下ミサ子さんを支える会       


原告が厚労省に控訴断念を要請
多磨全生園医療過誤訴訟

 8日午前、原告、社会復帰者、弁護団、支援者20人が厚労省に行き、控訴を断念するよう要請しました。代理人の内藤雅義弁護士は、「原告の全面勝訴判決が出たが、当然のこと。そもそもこれほど明らかな医療ミスを、国が裁判で争うこと自体おかしい」と言いました。

 在園者の一人は「この医療問題について、全生園では正しい情報が知らされていません。自治会は黙ったままです」と訴えていました。厚労省が、この問題について在園者、社会復帰者から直接話を聞いたのは、今回が初めてだといいます。
 この日、全療協は尾辻厚労相に「控訴断念」を申し入れました。また、群馬県の栗生楽泉園では、勉強会が開かれました。

 


全面勝訴! 多磨全生園医療過誤訴訟 
国は控訴をやめて下さい
 1月31日午前11時から東京地裁の103号法廷で、多磨全生園医療過誤訴訟の判決がありました。原告山下ミサ子さんの全面勝訴でした。佐藤陽一裁判長が山下さんの請求通り、国に対し5000万円の損害賠償を命じた判決文を読み上げると、廷内いっぱいの傍聴者から拍手が起こりました。閉廷後、手を取り合って喜ぶ回復者や支援者の姿があちこちで見られました。男泣きする入所者もいました。
 正午過ぎに弁護士会館で支援集会が開かれ、山下さん、原告側の証人、和泉真蔵医師、並里まさ子医師、全療協の神美知宏事務局長、沖縄から駆け付けた金城幸子さん、退所者の会会長、同会の砂川昇さんからあいさつがありました。山下さんは「今日は私のことを理解してくれた隣の家の娘さんや、姪夫婦が鹿児島から応援に来てくれました。皆さん、3年間応援して下さってありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」と集った人たちにお礼を言いました。神さんから「今回の問題は社会水準から遅れた療養所の医療体制に原因がある。この裁判が突破口になると思うので、判決について、全国の療養所に詳しく報告したい。全生園だけのこととせず、全療協として取り組んでいきたい」と力強いメッセージがありました。和泉医師は「控訴せず、医療監査をして被害を償うのが国の責任」と訴えました。金城幸子さんは「うれしい結果を貰えたことに感謝しています。勝訴の旗を持って東京のど真ん中を走りたい」と喜びを語りました。
判決要旨
 この裁判の争点は二つある。一、多磨全生園の医師による医療ミスで山下さんに損害を与えたかどうか、二、時効が成立するのかどうか。

 一について裁判所の判断。第一期(昭和55年4月24日〜昭和60年10月25日まで)の診療で原告に現れた症状が再発であるにもかかわらず、担当医は境界型と判断した。この時、組織検査をしていない。再発と境界型では治療方法が全く逆になる。原告に対する診察の誤りとその後の医療過誤は、第二期(昭和60年10月26日〜平成2年4月24日)、第三期(平成2年4月25日〜平成4年10月27日)と途絶えることなく続いたと言わざるをえない。

 二について裁判所の判断。もし時効があってその期間を過ぎたにしても、原告が置かれた状況を考えれば、損害賠償請求権の消滅時効とするのは、時効制度の趣旨に反する。
 原告の置かれた状況とは、強制隔離主義の療養所で、不等な差別や偏見にさらされる覚悟をしながら、国に対して損害賠償請求に踏み切るという当然の権利行使に及ぶことすら、なみなみならい決意に基づくものであったろうことは、容易に想像しうる。
 原告のハンセン病特有の後遺症害による損害額は@休業損害及び逸失利益、A入通所慰謝料、B後遺症害慰謝料を算出し、合計すると、その額は7647万8532円となり、原告の請求額を超えるから、原告の請求をすべて容認する。
 


全生園医療過誤訴訟傍聴記録
2004年10月4日 午後1時30分〜
             東京地裁627号法廷
 今日で口頭弁論がすべて終了する。朝から、あいにくの雨降りにもかかわらず、原告の応援・傍聴に駆けつけた人で法廷は満員になった。結審の段階になって裁判長が交代したことが、判決にどのように影響するのか、気掛かりだった。
 最初に、原告側代理人の内藤雅義弁護士が意見陳述し、続いて原告の山下みさ子さんが落ち着いて意見陳述書を読み上げ、裁判長に訴えた。
 判決は、予定より1ヵ月遅れて、2005年1月31日(月)午前11時の予定。
<内藤雅義弁護士の意見陳述>
 1. この訴訟は、日本裁判史上初めてハンセン病療養所の入所者が、ハンセン病療養所の医療過誤を問うた裁判である。療養所の医療のひどさは、他の医療機関の比ではない。これまで療養所に医療過誤訴訟がなかったのは、声を上げようにも上げられなかったからだ。このことを裁判所は是非理解してほしい。

 2. 療養所の過失について。
 再発の確定診断(菌検査)をせず、適切な早期治療を怠った過失がある。 耐性菌を増産する行為を治療の名の下に行い、障害を著しく悪化させた。
 診断と治療に一貫性がなく、被告の主張は医学的に到底受け入れられない。 治療のミスを患者に責任転嫁し、時効を主張する姿勢は、許されるものではない。

 3. 医療機関とは思えない全生園の医療状況、生活状況の改善に繋がる判決を下されるよう強く要望する。
<山下ミサ子原告の意見陳述>
 1. 裁判を起こした最大の理由は、主治医の小関医師に対する不信感と怒りです。こんな姿にさせられたことは、とても許せません。もう一つの理由は、事故で死んだ人がいながら、警察へ連絡しない療養所への恐怖感でした。

 2. 小関医師のセクハラ行為を見て、不安と嫌な思いをしながらも、病気を治したい一心で小関医師の指示に従っていました。小関医師の治療を受けて、私と同じような顔になった人が自殺し、また高齢の女性患者が風呂場で死亡したのに、警察に連絡もしませんでした。私も死んで同じように扱われるのではないかと恐怖にかられました。

 3. そんなとき、並里まさ子先生(全生園)の紹介で、原田先生(邑久光明園)に診ていただいたところ、ハンセン病は全く治っていないと知り、頭の中が真っ白になりました。主治医を小関医師から並里先生に代えていただいたおかげで、後遺症が残りながらも、ハンセン病は治ったのです。

 4. ハンセン病患者には身寄りがなく、事故があっても、声を上げてくれる人がいません。全生園にいる人たちも、ひどいことがあっても、ここで一生暮らさざるを得ないので、訴えることができないのです。 また、この裁判を傍聴に来た、ある入所者に対して、小関医師が「法廷に行ったやつの治療はしたくない」「行ったやつはみんなぶん殴ってやりたい」と言ったそうですが、このような発言が許されている状況が、いまの全生園を物語っています。

 5. 国、厚生省は、このような全生園の状況をいつまでも見て見ぬふりをしないでください。私だけでなく、他のおかしな事例についてもきちんと調査をしてください。患者・元患者が安心して治療・介護を受けられる新しい全生園にしていただきたい。そのことを強く訴えて、私の最後の発言とします。
  最後の機会をいただいて、本当にありがとうございました。
<報告集会での意見交換> 
弁護士会館 午後2時20分〜
 参加者は約30人。まず内藤雅義弁護士がこの裁判のポイントを説明しました。
 原告の主張は、「全生園の医療を良くするためには、裁判をするしかなかった。入所者や看護師に対するセクハラ行為、患者蔑視の治療態度を改めない小関医師は、人間として許すことができないので、辞めさせたい」という点に絞られる。
 国立療養所としてあるべき医療を行ってこなかった全生園には、@小関医師の不法行為、A全生園の医療システム、 B医療水準が世界の常識から極端に遅れていた、という三つの問題点がある。したがって、被告国には賠償責任がある。 という理由で、この裁判を闘ってきたということです。
引き続き、参加者からは次のような意見が出されました。
●患者に対して、「税金ドロボー、メシ食ってるか!」などという小関医師の暴言は、患者全体に対する侮辱に他ならないし、そういう悪習が長年にわたって許されてきた。
●国賠裁判では「人権、人権」と声高に叫んでいた人たちが、今回はなぜ口にチャックをしているのか。いま起こっている人権問題になぜ沈黙を守るのか。
●入所者が声を上げるのは、いかに大変か。たとえば、入所者がそうすれば、園内では村八分になるとか、退所者が治療のために全生園に行きたくても、だんだん行きにくくなっているのが実状だ。
●何件かの死亡事故があっても、外部に出なかった。それは、ハンセン病の絶対隔離政策がもたらした弊害で、療養所の中の医療行為も依然として閉鎖されたままだ。
●原告に対する小関医師の過失と責任の所在を明確にし、療養所の医療改善と、退所者が療養所に安心して戻れるような解決を図ってほしい。
●「小関医師を許さないぞ」という包囲網を作ろう。
 以上のような活発な、真摯な意見が出されました。原告からは、「勝訴を勝ち取るために、一人ででも支援を訴えるビラ配りをします。最後までご支援をお願いします」という決意表明があり、散会しました。
(村上絢子・記)

多磨全生園医療過誤訴訟
裁判支援を!
傍聴ありがとうございます

 元多磨全生園入所者で 現在退所者の山下ミサ子(仮名)さんが提訴した「多磨全生園医療過誤訴訟」の証人尋問が、開かれました。7月12日の原告側証人は群馬・栗生楽泉園の並里まさ子医師、26日は和泉眞蔵医師、被告側証人は、国立感染症研究所ハンセン病研究センターの石井則久医師でした。
 山下さんは、病気再発のために再入園した頃、医療ミスにより後遺障害1級の障害となってしまいました。 今回はハンセン病療養所における初の医療過誤訴訟です。
 12月の判決で勝利するよう、皆様、ご協力ください。ご多忙のこととは存じますが、 山下ミサ子さんの訴えにともども耳をすませたいと思います。
 
以下は山下さんからのメッセージです。
  「今ひとりでも多く傍聴に来てくださるよう皆さんにお願いをしています。 勇気を出してまいります。心から応援してくださいませ。 心細いですが、がんばります。 どなたでも来て下さるとうれしいのです」
 
明かされた隔離医療
 7月12日、東京地裁102号法廷で、「多磨全生園医療過誤訴訟」の公判がありました。約100人が入廷できる法廷は、原告を支援する友人・入所者、退所者の会、支援者、自治会役員などで満席でした。  
 原告・山下ミサ子さん(仮名)、山下さんの主治医だった小関正倫医師(多磨全生園)、原告側証人・並里まさ子医師(栗生楽泉園)に対し、それぞれの代理人から、午前は尋問、午後反対尋問があり、隔離された療養所で行われた、患者不在の医療が浮き彫りにされました。
 小関医師は、自分が尋問されているのに、終始「私たち」と答えたり、診断の根拠や治療法の選択についても、他の医師の意見・報告書に基づくとか、責任転嫁する態度で、主治医としてのプライドはないのかと強い怒りを感じました。尋問の合間、たびたび大きくため息をつく姿が見られました。
 一方、並里医師は、患者の立場に立って治療するのが医師としての務めだと言い、「小関医師の治療法は、医学的常識からは考えられない。1982年に被告が原告を診断したとき、原告の症状は明らかに再発を示しているにもかかわらず、診断を誤り、長年に渡って間違った治療を惰性的に続けたため、原告の病状は悪化した」と、理論的に明快に反論していたのが印象的でした。
 裁判長が二人の医師を証人席に並べて、「今の証人の意見について、小関医師はどう考えますか?」と尋問する場面があり、小関医師の原告に対する診断と治療の誤りが、いっそう明らかになりました。

 小関医師について、インフォームドコンセントとは程遠い、「患者は何も言うな」という尊大な態度、同医師の治療に絶望した自殺者の存在、同医師を信用できず、患者同士で情報を交換し、自分自身を守らざるをえなかったこと、セクハラなどが、原告の証言で明らかになりました。

「私なら100%治せます」
ー和泉眞蔵証人ー
7月26日・東京地裁102号法廷
 7月26日、午後1時30分から、東京地裁102号法廷で「多磨全生園医療過誤訴訟」の証人尋問がありました。裁判が結審前のヤマ場ということもあり、法廷は原告の友人、入所者、退所者の会、支援者、自治会役員などでいっぱいになり、中に入りきれない人たちが交代で入廷し、傍聴するほどでした。
 原告側証人の和泉眞蔵医師は、京大病院でハンセン病患者の外来治療を経験しており、隔離批判の立場から「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」でも原告側の証人として、最初に法廷に立っています。国立ハンセン病療養所邑久光明園、同大島青松園、京都大学医学部皮膚病特別研究施設など国内の他、インド、オーストラリア、インドネシアなど海外で、37年間、ハンセン病の研究と診療にあたってきました。
 一方、被告側証人、石井則久医師の経歴を見ると、横浜市立大学医学部皮膚科の在籍が長く、2002年に国立感染症研究所ハンセン病研究センターに来ています。多磨全生園では、1年半ほど前から週1回だけ診察していることが、原告側弁護士の尋問で明らかになりました。
 この日の争点は前回と同様、1981年、小関正倫医師が、最初に原告山下ミサ子さんを診察した時、診断とその後の治療に間違いがなかったかどうか、ということでした。反対尋問の後、証人二人が席に並び、裁判長から「この点について、どう考えますか?」と、いくつか尋問があり、争点の核心部が明らかにされました。
 和泉医師は「1981年に現れた、原告の神経症状を「再発」と見抜けず、誤診したことから、医療過誤が起った。1985年に顔面の神経痛と背中のかゆみを訴えたとき、小関医師は老人性皮膚掻痒症と診断し、かゆみ止めを処方するだけだった。この間一度も菌検査をしていない。治療が10年以上にも渡り、様々な症状が現れているにもかかわらず、小関医師はそれに気付くこともなく、誤った治療を続けたため、原告の病状を、取り返しがつかないほど悪化させてしまった。
 原告の治療期間は、ハンセン病に効果的な多剤併用療法が導入され、普及する時期と一致しているので、この方法を使えば、悪化は防げた。今回の事件は、日本の絶対隔離絶滅政策の中で、患者だけでなくハンセン病医学、医療が一般医療から隔離されているために起こったのだ」と主張しました。
 これに対し石井医師は「現在の医療だったら、1981年当時の症状を見て、再発と分かるが、この当時は鑑別の仕方が違っており、診断には神経内科の医師も加わっており、「境界群反応」と診断したのは間違ってはいない。多剤併用療法も、その有効性が各国で認められたのは、1980年代後半であり、1981年の時点では、世界的にもその有効性が確率されているとはいえない」。
 また次の点も指摘しています。「主治医(小関医師)が治療しようとしても、原告はまじめに受けようとしなかった」。しかし、10年以上も治療を受け、病状が悪化するばかりでは、その医師に不信感を持つのが当然でしょう。それでも、別の医師に診てもらうことはできません。
 患者の病状を見ながら、薬剤の種類や量を増やしたり、減らしたりと工夫もせず、ただ惰性で投薬する医師。患者の話など聞いてくれない医師。その一方で、医師を選べない患者。セカンドオピニオンなどとうてい望めない患者がいます。
 尋問の最期のあたりで、石井被告がはからずも「カルテからは、患者と医師の信頼関係が見えてこない」と言いました。それもそのはずです。カルテにはほとんど何も書いていないのですから。
 「最期になにか言うことはありませんか?」と裁判長に言われ、和泉証人が石井証人に「あなたは、1981年の状態の原告を治せますか?」と質問しました。これに対し、石井証人は「それは分かりません」と答えました。和泉証人は「私なら100%治せます」と断言しました。経験豊富な臨床医の自負が感じられました。
 今回の訴訟は社会から隔離され、差別された療養所の中で、さらに差別された弱者が、ようやく声を上げ、患者不在の医療を告発したという点で画期的なものです。
 この裁判は10月に結審し、12月には判決が出ます。
多磨全生園医療過誤訴訟
初公判に支援を
 元多磨全生園入所者で 現在退所者の山下ミサ子(仮名)さんが、 このたび「多磨全生園医療過誤訴訟」を提訴することとなりました。
 山下さんは、病気再発のために再入園した頃、医療ミスにより後遺障害1級の障害となってしまいました。 今回はハンセン病療養所における初の医療ミス訴訟です。
 その第一回の公判が下記の通り行われます。 ご多忙のこととは存じますが、 山下ミサ子さんの訴えにともども耳をすませたいと思います。 どうぞ多くの方々に声をかけて、傍聴してくださるよう、お願いいたします。
 
★期日:6月19日(木)午前10時
  ★場所:東京地方裁判所6階 611号室
(地下鉄丸の内線「霞ヶ関」下車)
以下は山下さんからのメッセージです。
  「今ひとりでも多く傍聴に来てくださるよう皆さんにお願いをしています。  勇気を出してまいります。心 から応援してくださいませ。 心細いですが、がんばります。 どなたでも来て下さるとうれしいのです」
 

私の裁判傍聴記
――2004.7.12(月)ハンセン病医療過誤訴訟を傍聴――
現代社会学コース3年 諸岡美和
1 はじめての裁判所
 1.1 入り口どこ?
 9時40分,地下鉄「霞ヶ関」駅到着。A1という出口をでると,目の前に東京地裁発見。しかし,どこから入ったらいいのか。たしか,正面入り口ではなく,脇のほうにある入り口がなんとかと先生が言っていたような。とにかく,脇のほうにあった,傍聴券配布と書かれていたところに並んでみようとすると,係の人が「104号法廷ですか?」と。「いや,たしか違うよね」と谷奈央子さんと話し,ほかの入り口を探してみるもわからない。やっぱり,困ったときは人に聞くのがいい。係の人に聞くと,正面入り口から入っていいとのこと。そうだったのか!
 入ると,まず,荷物検査。トレーにバッグを載せ,機械の中をバッグを載せたトレーが通る。自分のバッグを受け取り,102号を探す。正面玄関を入ると,フロントに今日行われる裁判がすべて書かれたものを発見。ペラペラ見てみるが,量が多くて途中であきらめる。「離婚」「損害賠償」「交通事故」などなど,さまざまな裁判が行われるようだ。
 大きな看板に館内案内されていて,とりあえず,無事,102号法廷の場所がわかった。
 1.2 隣でおこなわれる裁判は……
 102号の入り口に行ってみることにした。着いてみると,年配の方が何人もいた。しかし,知っている顔はない。「知ってる人いないね」「まだ早いから,座ろう」とソファーを探す。102号と通路を挟んで隣が104号なのだが,そこで12日の午前に行われた裁判は,なんとあの和田被告の裁判だったのだ。「傍聴券は先着順,準強姦,和田真一郎(漢字違うかもしれません)」との掲示があり判明した。和田被告といえば,早稲田大学スーフリことスーパーフリーの元代表で,一時期,とても世間を賑わせた事件だ。同じ大学生が起こし,被害者も大学生であったということもあり,とても印象に残っている。ミーハーな私は,ちょっと興奮してしまった。
 ソファーで休憩をし,10時10分再び102号へ向かった。今度は,よく知っている顔を発見。来れないかもと言っていたが,やっぱり来ていた。福岡先生だ。やっと,知り合いを見つけることができた。安心した。
2 ハンセン病医療過誤裁判はじまる
 10時28分「ちょっと早いけれど,始めましょうか」と裁判長が言い,裁判が始まった。裁判というと,もっと厳格なものを想像していただけに,意外と軽いものなんだと思った。
 証言をおこなう,被告側の小関医師,原告側証人並里まさ子医師,原告山下ミサ子(仮名)さんの3人が,生年月日を言って,そして偽りのない証言をすることを誓う。
3 被告小関医師の証言
 3.1 「患者の治療状態が不規則だった」
 小関医師に対する主尋問をおこなった弁護士は,やや金の入った,きれいな白髪。この弁護士からの質問に小関医師が,淡々と答えていく。その答弁は,念入りな打ち合わせをしてきた感じで,書かれていることをそのまま答えている印象を受けた。約30分,小関医師の答弁がおこなわれたのだが,おもな主張は,「患者は外泊が多く,治療状態が非常に不規則で,有効な治療がおこなえなかった」「機会があるごとに(不規則な治療により有効な治療がおこなえないことを)説明してきたが原告は受け入れなかった」というものだ。
 治療経過についても答えた。(すべては覚えきれないので,覚えている一部について書きます。)菌検査が陽性となった1986(昭和61)年から,治ハンセン病薬,ダプソン(DDS)がまったく処方されていないことについて,小関医師は「神経細胞の増悪によるため」と答えた。(ここは後に,小関医師と並里医師の意見が対立する。)また,「平成3(1991)年には,原告は自己都合による外泊を決定,自己治療を始めた」と証言した。(ここも後に,原告の主張と異なる。)
 3.2 「ハンセン病治療は難しい」
 最後にも,小関医師は,不規則な治療によって有効な治療がおこなえなかったこと,そして,「ハンセン病治療は難しい」と証言する。「それは,なぜですか?」と弁護士に聞かれると,「患者の症状によって治療が決まり,医師の裁量に関わってくる」と答えた。それなら,なおさら,小関医師の医師としての責任は問われるべきだと思った。難しいことを理由に,原告に対しておこなった治療は,間違ったものではなく,仕方がなかったとでも言いたいのだろうか。患者は医療に対する知識がないから医師を信じ,すべてをまかせる。それなのに,このような,難しいことを理由にする医師には,まかせられないな,そう思わずにはいられなかった。
4 原告側証人並里医師の証言
 4.1 「先生,私は,治るのでしょうか?」
 並里まさ子医師は,小柄で,髪はショートカットの女性。はきはきと話す,ちょっと早口のひとだった。皮膚科の専門医で,1992年1月に多磨全生園に赴任し,現在は栗生楽泉園副園長である。
 まず,原告の主治医となる経緯が話された。全生園赴任後まもなく,病棟の廊下で原告に呼び止められ,「先生,私は,治るのでしょうか?」との質問を受けたのだという。その頃,病棟に入室中の患者の中に,2人の特徴的症状(薬剤による著しい色素沈着)を示す患者がおり,そのうちの1人が原告であったという。(もう1人は,後に自殺してしまう!)
 4.2 患者への責任転嫁を批判
 そして,原告の現在の後遺症の状態,小関医師による治療の問題点が証言された。原告の後遺症であるが,私が記憶しているところでは,目と足の状況について語られた。目であるが,筋力低下により,つねに角膜炎の危機にさらされていること。足は,骨破壊が進行した状態であること。そして,近日何度目かの再手術が予定されているという。
 小関医師による治療の問題点であるが,「ハンセン病が進行していく中で,化学療法がなされていないこと」「ハンセン病は,時期を失すれば重大な障害につながることは,1970年にはわかっていたことであるのに,積極的な原因追求による適切な診断とこれに基づく治療がおこなわれなかったこと」など,医者として,薬の投与量,治療経過についてさまざまな小関医師の問題点を指摘された。そして,なにより,医学的知識,ハンセン病への知識がまったくない私でも「そうだ!」と感じたこと,それは「小関医師はハンセン病に関する知識が非常に少ない。それを患者の治療態度のせいにし,患者への責任転嫁をおこなっていること」である。小関医師は,さかんに「治療が不規則」であることを口にしたが,それなら,なぜそれを医師として注意しなかったのか。(小関医師はしたと言っているが,原告は言われたことはないと主張。)やはり,医師としての責任を果たしているとは思えなかった。

5 原告山下ミサ子さんの証言
 5.1 後遺症
 これまでに,私は2人のハンセン病元患者さんにあった。(多磨全生園で,平野昭さん。そして埼玉大学に来てくださった,川邊嘉光さん。)どちらも,顔を見てわかるような後遺症が残っていない方で,しかも,どちらも男性であった。しかし,今回,原告の山下さんは女性で,顔などにひどい後遺症が残ってしまったという。だとしたら,どのような形で残ってしまっていて,顔に後遺症が残ってしまったことをどのように思い,原因をつくった医師に対してどんな思いを抱えているのか。ぜひ,直接,山下さんの生の語りを聞きたい。そんな思いから,裁判へ行いたいと思った。(最初は,英語の授業があるので迷ったのだが……)
 山下さんは,きれいな青色の花柄のブラウスに,黒いつばの大きな帽子,大きなサングラスをかけていた。そのため,最初は,顔を見ることができなかった。(反対尋問のときは,サングラスはずしていた。)しかし,川邊さんが言っていた「とてもきれいな人だった」という面影は,なかった。帽子をかぶっていたので,よくわからなかったが,髪の毛は抜けてしまっていたようだった。帽子の下から少し後ろ髪が見えるくらいであった。顔も,皮膚が硬くなってしまったような感じをうけた。違う医師によって,きちんとした治療がおこなわれていたならば……そう思わずには,いられなかった。
 5.2 「そのうちベロンベロンになるぞ」
 原告の山下ミサ子さんは,1938(昭和13)年生まれの66歳。15歳のときにハンセン病と診断され,鹿児島の星塚敬愛園に入所。1963(昭和38)年,社会復帰に備えて,左手の手術を受けるため静岡県御殿場市にある私立療養所神山復生病院に転院。1970(昭和45)年,32歳のとき,菌検査が陰性化して社会復帰。その後,東京に上京し,時計のバリ取りという手を使った内職をし,自活した生活を送り,なんら生活に不便はなかったという。そして,1〜2ヶ月に1回くらいの割合で多磨全生園に通院し,経過観察を続けていたという。しかし,11年後の1981(昭和56)年頃,顔にピリピリとする違和感を感じ,翌年には「兎眼(とがん)」という,目を閉じても瞼が完全には閉じなくなる症状が現れる。通院開始当時から,多磨全生園での主治医は,小関医師であったという。
 弁護士は,まず,原告の東京での自活した生活を聞き,そのときは,なにも日常生活に不自由がなかったことを確認し,当時の写真を証拠として裁判官に提出していた。次に小関医師の治療状況について聞いていく。原告の証言によると,小関医師から症状に対する原因説明はおこなわれなかったという。また,1990(平成2)年に入院するのであるが,そのときも,小関医師から,病気の状況,治療計画の説明はなかったという。そして,ある日,顔面の神経がピリピリすると訴えたところ,小関医師は,ただ「そのうちベロンベロンになるぞ」とだけ言い,何の治療もせずに病室をでていったと,原告は,涙ながらに,訴えた。
 その後,小関医師が担当している患者が病気を苦に自殺したことがあり,1992(平成4)年,意を決して並里先生に治療についての相談をしたという。そして,担当医が替わることになったとき,小関医師に呼び出され,小関医師は「医者を替えるそうだから。上の命令だから仕方ない」などと不満そうに言い,「後はどうなろうと,俺の知ったことじゃない」と言い部屋をあとにしたという。原告は,このことを「一生忘れません」と涙ながらに語った。
 傍聴席からは,原告の表情というのはわからないが,涙ながらに訴える声が,痛々しく,そしてそのときの悔しさを物語っていた。聞いていて,私も胸が苦しくなった。
 5.3 病院にいたくなかった理由
 小関医師が,「患者の外泊が多く,治療が有効におこなえなかった」と証言したが,それには,外泊が多くなってしまう理由があった。夫が外にいたこともあったが,小関医師の治療を受けていた患者さんが亡くなってしまい,その原因は小関医師の医療ミスであると患者の間で噂になっていたから。そして,小関医師のセクハラ行為である。陳述書(裁判が始まる前に,傍聴者に山下さんの陳述書と並里医師の陳述書が配られた)には次のように書かれている。「深夜に小関医師が同じ病室で隣のベットで寝ている女性患者を呼びに来て,深夜1時過ぎになって女性が戻ってくることがありました」。これについて,原告は時計で時間をみたということで,女性患者が出て行き,帰ってきた時間を詳細に証言していた。そのほかにも,看護婦や患者の家族へのセクハラ行為があったことが証言された。
 5.4 裁判をおこした理由
 予定では,12時までであったが,もう12時半近くになっていた。裁判長が時間が過ぎていることを指摘すると,弁護士は「これで,もう最後です」と,最後の質問として「なぜ,裁判をおこそうと思ったのですか?」と聞いた。原告は,自分のような犠牲者をこれ以上出さないため,そして患者や看護師にとってよい病院になるように裁判をおこしたと答えた。
6 反対尋問
 福岡先生の知り合いの朝日新聞の記者さんのおかげで,厚生労働省の地下食堂でお昼を食べた。大学の食堂をきれいにして,メニューを増やしたような感じで,安かったがとてもおなかがいっぱいになった。
 午後は,午前におこなわれた証言に基づいて,反対尋問がおこなわれた。
 まずは,被告小関医師からである。原告側の眼鏡をかけた小柄な弁護士が,質問をしていく。質問の内容は,原告に対する治療内容についてである。特に,1981(昭和56)年に違和感を感じ,通院し始めたときの小関医師の治療,薬の処方量について質問していた。しかし,二人の話がかみ合わない。何度か,裁判長により,話がかみ合っていないと指摘される。小関医師の話し方は,なにかモゾモゾといった感じで,聞いていて,もどかしい。それでもって,弁護士がする質問と小関医師の答弁がかみあっていないものだから,聞いていて,少しイライラしてきてしまった。しかも,おなかいっぱい食べ過ぎてしまって,眠気にも襲われる。ここは,これ以上印象に残っていないので,書けません。ごめんなさい。
 続いて,並里医師へ被告側の弁護士が質問をする。ここでは,並里医師が原告へおこなった治療について,そして当時の論文に基づくハンセン病治療について聞かれた。被告側の弁護士は,並里医師が処方した薬が,適切なものであったか。適切な量が処方されたか。また,当時のハンセン病治療について書かれた論文を示し,「小関医師の治療は論文に基づいた適切なものであったのではないか」と質問していく。これらの質問に対し,並里医師は,はっきりとわかるものには「はい」と,わからないことについては「わかりません」とはっきりとした口調で答えていた。この時点で,予定されていた4時半になる。並里医師への反対尋問がおわったところで,10分ほどの休憩に入る。
7 感想
 実は,6時からダブルスクールがあるので,それまでに大宮へ行かなければならない。予定では,4時半終了ということだったので余裕をもって大宮へ向かうつもりだったが,休憩が終わった時点で4時45分。原告山下ミサ子さんへの反対尋問の途中で抜け出して,慌てて駅へ向かう。私が帰ってからのことは,あとで谷さんと阿部寿子さんに聞こう。
 今回,初めて裁判傍聴を経験したのだが,思ったよりもずっと興味深いものであった。裁判と聞くと,ちょっと堅苦しく,難しい言葉を使って話し,私はきっと途中であきるだろうなと予想していた。しかし,終わってみるとあっという間だったな,というのが一番の感想だ。原告と被告の言い分,意見の対立があり,聞いていてあきなかった。
 しかし,裁判官,裁判書記官の態度には幻滅した。というのは,傍聴席から向かって左の裁判官〔右陪席といいます。女性の裁判官だったけど,もうちょっとマジメにやれ,とぼくも思いました――福岡〕はいかにも眠そうな目をし,明らかにしっかりと聞いてあげていない。書記官は,途中で目薬をさしたりと,「もっと,ちゃんと聞いてあげて!」と言いたくなった。もっと,厳格なものを想像していただけに,現実はこうなんだ(けっこう,いい加減なんだ)と学んだ。
 医療過誤を犯した張本人である小関医師は,いまもなお多磨全生園で医師を続けている。私は,もう辞めているものと思っていたので,福岡先生に聞いて驚いた。このような医師がいまも働いている現実を知り,熊本の宿泊拒否事件もそうであるが,まだまだハンセン病患者に対する問題は解決されていないのだと感じた。ハンセン病は,過去のことではなく,今もなお苦しんでいる人がいる現実を,より多くの人に伝えるためにも,私たちがおこなっているテープおこしという作業は大切なんだ。そう感じた日でもあった。(でも,なかなか思うように進まないが……。夏はがんばるぞ!)裁判をおこした山下さんは,きっと勇気がいったと思う。人前に出て,過去のつらい思い出を話さなければならないのだから。それに,並里先生も同じ国立療養所の医師による治療の誤りを指摘するわけだから,覚悟を決めて,原告の証人となったと聞いた。この2人のためにも,是非とも,よい結果が出てほしい。
 

多磨全生園医療過誤訴訟

7月12日(火)午前10:30〜午後5:00
東京地裁102号法廷
@小関正倫医師の陳述(要旨)

1 らい反応を抑えるため、ステロイド剤(プレドニン)を継続的に投与した。原告の症状が悪化したのは、治療態度が悪く、通院が不規則だったためだ。

2 昭和61年に菌検査+2になったが、「境界反応」と判断した。神経障害が悪化したため、プレドニンを継続投与した。DDSとリファンピシンの投与をやめたのは、まず神経症状の治療をするためだった。

3 ハンセン病治療のため、入院の必要性を原告に説得した。(被告に説得されたのではなく、他の医師に、足の傷を治す外科治療のため、入院するようすすめられたと原告は主張)

4 抗ハンセン病薬としてDDSを使用したのは、B663の名前を言うと、社会復帰したい原告が受け入れないと考えたため。原告は自己都合による外泊が多く、治療効果が上がらなかった。

6 再発と診断後、治療法はステロイド剤とB663単剤の投与。MDT(多剤併用療法)でなく単剤投与したのは、原告が「目だけは取られたくない(失明したくない)」と言ったから。DDSには耐性があったし、リファンピシンを使うと、ショック症状を起こし、失明や重い症状になる危険性があったからだ。

7 菌指数と紅彩炎の経過を見ながら、B663とサリドナイドを継続的に投与した。治療法の選択は、当時の医学的常識と考えらる、滝沢医師と後藤医師の「報告」に基づいている。原告の後遺症は、本人の診療態度が悪かったためだ。
 
A原告側証人、並里まさ子医師の陳述(要旨)

1 原告から声を掛けられて、カルテを見た。目に障害が出ていて、再発の特徴的な症状を示しているのに、ステロイドを投与するなど、原告は医学的常識では考えられない治療を受けていた。村上副園長(当時)に相談し、原田禹男医師(当時邑久光明園園長)を紹介した。原田園長は原告を診察し、「全生園の医療がここまでひどいか」と言った。その後、証人は原告の主治医になった。

2 神経症状が左右対称型であり、筋力低下、目に紅彩炎が出現していたことから再発と診断した。DDS耐性を考慮して、治療方針は、らい反応を最小限に抑えながら、多剤併用療法による治療をした。菌検査は、1年に1回実施。治らい剤によって、1〜2ヵ月で紅彩炎は軽減し、約1年でらい腫性憎悪も軽減した。4年後に治癒した。

3 小関医師の診断と治療法の選択は、理解不能だ。ハンセン病は早期発見・早期治療がなにより必要とされるのに、原告に治療方針を説明もせず、病状の進行と重度の後遺症が残ったことについて、小関医師が原告の責任としていることは問題だ。検査データを患者に話すのは、信頼関係を保つ上で重要で、小関医師は、当初から治療方針を説明する必要があった。
 

B山下ミサ子(仮名)原告の陳述(要旨)

1 昭和28年、15歳でハンセン病と診断され、昭和28年から38年まで星塚敬愛園(鹿児島)に入所した。社会復帰に備えて手の手術を受けるため、昭和38年に神山復生病院に転院。その後、32歳で社会復帰して、通常の生活を送っていた。後遺症はなかった。

2 上京後、多磨全生園に定期的に通い、経過観察を受けていた。この当時から主治医は、小関正倫医師だった。

3 昭和56年ごろ、顔の腫脹感とピリピリする違和感を感じた。翌年、顔面の神経が麻痺し、目を閉じても瞼が完全にしまらなくなる兎眼(とがん)の症状が現れた。このころからハンセン病による様々な症状が出現し始めた。

4 治療の効果が現れないまま数年が経過した。昭和45年以来、菌陰性だったのに、61年には菌陽性になってしまった。しかし、小関医師の治療方法に変化はみられず、症状や治療方針についての説明も全くなかった。

 
5 園の外で結婚していたので、外泊することも多くなったが、小関医師から受診態度について注意を受けたことはない。後遺症の恐ろしさは、患者自身がいちばんよく知っているので、医者の勧めに逆らってまで、治療を怠けることなどありえない。

6 兎眼の症状が目に見えて悪化し、顔面の神経マヒも進行した。小関医師は、その頃から平成3年まで、前と同じステロイド剤(プレドニン)の治療を継続。症状はいっこうによくならなかった。寛解してから服用していたDDSは、菌陽性になった昭和61年の後半から、なぜか処方されなかった。その後、平成2年まで、治らい薬はまったく投与されなかった。 

7 その間に身体の表面の知覚のほとんどが失われ、平成2年には、らい腫性の結節がたくさん出て、髪の毛も抜け落ちるようになった。
入院して治療したほうがよいとの小関医師の勧めで入院した。しかし、症状は改善せず、悪化の一途をたどる(全身の知覚鈍麻、顔面筋肉の麻痺、手足の変形、紅彩炎、角膜炎など)。

8 症状の悪化を訴えても、小関医師はまったく取り合おうとせず、「そのうちベロンベロンになるぞ」とだけ言い残して、病室を後にして行ったときの驚きと悔しさは一生忘れることができない。小関医師への不信感と絶望感の中で日々を送っていた。

9 小関医師の治療を受けていた患者が自殺したことに衝撃を受けた。昭和61年に菌陽性になってから7年後の平成4年、患者の間で評判の高かった並里まさ子医師に相談した。平成4年に主治医が小関医師から並里医師に交代。並里医師の励ましと症状に合った治療法によって、平成6年には症状が著しく改善した。
 
10 けれど、小関医師の過った治療によって変形してしまった手足や顔は元通りには治らないし、重度の後遺症が残ってしまったことについて、心の底から怒りと悲しみを感じている。

11 療養所という閉鎖社会の中で、低レベルの治療をしても外部から批判されないというハンセン病医療の実態があり、旧態依然の対症療法を行うだけの医師による犠牲者は、今も後を絶たない。一生を療養所で送らなければならない入所者にとって、医療ミスによる被害について、声を上げられない状況にある。 

12 私のような犠牲者はこれで最後にしてほしいという強い願いを込めて、小関医師の医療過誤による損害賠償請求を国に求めることを決意し、訴訟を提起した。
 
<裁判長の尋問>(要旨)

▼反対尋問の後に裁判長が、小関医師と並里証人を並べ、二人に尋問した。
 神経症状、顔面の違和感、紅彩炎、筋力の低下は、「再発の初期症状」だと証言した並里証人に対して、小関医師は、「当時は再発と診断しなかったが、現在はそのように認識している」と証言。菌プラスになったのに、境界反応と診断した小関被告に対して、並里証人は、「境界反応と菌増殖は同時には起こらない。(診断と治療法が間違っている)」と反論。「過った治療を続けた結果、重度の後遺症が残った。将来も障害を起こしやすいが、それは、らい菌の浸潤のため」と言う並里証人に対して、小関医師は「いちがいには断定できない」と反論。
 
▼「先生に再発かどうか聞かなかったのか? もし、再発したと言われていたら?」という質問に対して、原告は「先生に聞いても放っておけば、自然に治ると言われた。早く自宅に帰りたかったから、説明を受けていたら、治療に専念したはず。自分では怖くて鏡を見られなかった。先生と真剣に話し合ったことはない。薬が変わっても、看護婦さんが薬を持ってくるだけだった。
 並里先生に代わってからは、薬の説明もしてくれたし、何か異常が起きたら連絡するようにと言ってくれた」。