韓国・ソロクト
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3月19日、ソウルの国会議員会館で、日本、韓国、台湾の弁護士、国会議員、ソロクト入所者、定着村入所者、関係者など約450人が集って、ハンセン病元患者の人権を回復するためのシンポジウムが開かれました。日本と同様、韓国、台湾でも、ハンセン病に罹ったというだけで、患者さんたちは長い間、人間性を抹殺されてきました。シンポジウムの冒頭、ハンビット福祉協会会長のイム・ドウソンさんは、全国20、000人の元患者を代表して、3カ国の人々が国会という場に集って、元患者の人権シンポジウムを開けたことは感無量であること、さらに日本政府に対して、ソロクトへ強制収容された原告への補償問題の早期解決を訴えました。日本政府は、補償金支給の条件にソロクト居住証明を要求しているけれど、入所者は自分で記録を管理する立場になかったのであり、管理責任はソロクト管理者側にある。また韓国でも、2005年にハンセン病患者の人権回復のための特別法が提案されたけれど、まだ成立していない。この法案の国会通過を強く要求すると挨拶しました。 |
| 次に、解放前と解放後の人権実態を二人の回復者が証言しました。イ・ビョンドゥさんは、ソロクトでの土木工事、カマス編み、松やに採取、レンガ造りの強制労働、神社参拝の強要、暴力、罰としての輸精管手術の強要などについて語りました。定着村で暮らすキム・フンスさんは、解放後ソロクトから出て故郷へ帰ったとき、母親からも物乞いと間違えられて追い払われたり、人が来れば倉庫に隠れなければならなかったり、04年にはコンピューターの講習を断られたことがあり、解放前も解放後も、患者は身内の恥であり、人権もないままに生きてきたのが、自分たちの人生だったと訴えました。 韓国の弁護士チョ・ヨンソンさんは、韓国におけるハンセン病患者に対する差別の歴史、ソロクト裁判の経過、残された課題について説明しました。日本の厚労省に対する補償請求の現状は、07年3月12日現在441名が請求しましたが、補償決定したのは170人で、残りの271名はいまだに決定が出ていない。厚労省が、元患者に対して日帝時代の資料を要求するのは、立証責任を転嫁していると言わざるをえない。補償請求の他、今後は経済的安定、福祉制度の改善、名誉回復のための法制定の必要性を強調しました。 |
| 日本から参加した徳田靖之弁護士は、「日本におけるハンセン病隔離被害回復のための取り組み」について話しました。国賠裁判で原告全面勝訴を経て、01年7月に成立したハンセン病補償法が、韓国ソロクト、台湾楽生院の入所者にも適用されることとなった。日本では、統一交渉団(原告団、弁護団、全療協)を組織して、厚労省と定期協議を実施している。今後は、差別・偏見の除去、将来構想の策定、医療の充実、再発防止のために、国に対してハンセン病基本法の制定を求める運動の必要性があると報告しました。 |
| 台湾の蘇恵卿・東呉大学助教授は、「台湾におけるハンセン病補償法立法に関する現状と問題点」について解説しました。台湾は、1945年までの49年間、日本の植民地であり、楽生院に患者が強制収容されていた。戦後、国民党政府に統治されたが、強制収容策は引き継がれ、最大収容数は1000人を超えていた。 楽生院入所者が日本政府に対する補償請求したことで、初めて台湾政府が患者の人権に気付き、戦後の強制隔離によってもたらされた人権侵害について補償すると宣言しました。現在、ハンセン病補償法(草案)が提出されているけれど、膠着状態が続いているので、この4月に国家賠償訴訟を提訴する準備中であること。 もう一つの問題は、楽生院の取り壊しと入所者への移転強要です。楽生院保留自救会(自治会)は、隔離の歴史を後世に伝えるために、楽生院を国定古跡に保存することを要求している、と現状報告をしました。 |
| 最後に、ソロクトの前自治会長が会場から発言しましたが、3カ国の弁護団によって、このようなシンポジウムが開催され、多くの回復者が参加できたことに感謝している。しかしハンセン病問題は自分たちの問題なのだから、まず自分たちが率先して立ち上がらなければならなかったのではないか、と堰を切ったように話し始めて、司会者に制止されてもとどまることなく話し続けていたのが非常に印象に残っています。(文・村上絢子) |
![]() シンポジウム会場前のホールで、写真展「絆 らい予防法の傷痕 ー日本・韓国・台湾」が開かれました/3月19日午後 |
うれしさ半分のソロクト定着村の人たちに春はいつ? 10月20日、韓国の大邱市からソロクトへ行ってきました。当初、バスを乗り継いで行く予定だったのですが、ソロクトへ40年も通っている、大邱市在住の牧師さんが行くので、車に便乗させてくださることになりました。大邱市からビュンビュン飛ばして5時間。 フェリーでソロクトに入ると、何カ所かで工事をしていました。自治会長の金明鎬さんは外出中で会えませんでしたが、偶然にも写真家の寺島萬里子さんが取材で来ていて、自治会で蒋基鎮さん(写真)にインタビューをしているところでした。 3週間前にソロクトの原告67人に補償金が支給されて、蒋さんは「大変な思いをして6回も日本へ行った甲斐があった。日本の皆様に感謝しています。だけど、まだ支給されていない人がいます。みんな年をとっているので、早く支給してくれるように、支援者の皆様、よろしくお願いします」と頼まれました。 病棟へお見舞いに行くと、入院中の患者さんたちがお揃いの黄色のTシャツを着て、おそろいのズボンをはいていました。着ているものが変わっただけで、病室の雰囲気がずいぶん明るくなるようです。 |
| いまの時期は、ボランティアの学生たちの人数が少ないので、介護の手が足りないようですが、このところ訪問者が増えたせいか、待遇面で多少は良くなっているようです。けれど病院の運営が、相変わらずボランティア頼りなのは心許ないと思いました。 |
| ソウルでは、ハンビ協会の林会長と、IDEA KOREAの鄭会長に会ったところ、定着村の原告たちはまだだれも補償金を受け取っていないとのことでした |
| 患者登録証があれば、支給すると厚労省が言っているようですが、「日本側は『敗戦後、日本へ引き揚げるときに韓国側にその書類を渡した』と言うし、韓国の役所は、『引き揚げのどさくさに紛れて、日本人が散逸してしまったのではないか。あるいは朝鮮戦争で焼失したのかもしれない』と、ピンポンのように相手のせいにして、らちがあかない。原告は高齢で、もう待てないので、弁護士の先生方や日本の支援者の皆さんにぜひ助けてほしい」と要請されました。 |
| 村上 絢子 |
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韓国の元ハンセン病療養所入所者ら
62人に補償認定 |
| 国外のハンセン病療養所の元入所者の救済問題で、厚生労働省は22日、改正ハンセン病補償法に基づき、補償認定が遅れていた韓国の元入所者ら計62人に対し、1人800万円の補償金を支給することを決めた。また、台湾の元入所者2人も新たに支給を認めた。
韓国の62人は、日本の植民地統治時代に韓国の「小鹿島(ソロクト)更生園」に入所させられた人たち。今年2月の改正法施行後、補償金支給の認定に必要な書類が韓国側から約80人分提出されたが、損傷が激しいことなどから入所歴などが確認できず、これまでの認定は2人にとどまっていた。同省は引き続き、残りの約20人分についても認定作業を進める。 (朝日新聞 2006年06月22日20時16分) |
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韓国ソロクト・台湾楽生院から喜びの声
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| <ソロクト> |
| 蒋 基鎭(チャン・キジン)さん 男性・84歳 皆様のお蔭様で(補償法が)成立したのだと思います。感謝の気持ちでいっぱいです。日本の弁護団の皆様の努力で良い結果に結びついたので嬉しいです。また日本で支援してくださった皆様にも感謝します。皆様の支援なしにはこのように速やかに解決できなかっただろうと思います。死ぬ前にいい知らせを受けることができて嬉しいです。なるべく迅速にことが運べて死ぬ前に補償金の支給を受けることができれば、これ以上願うことはありません。今まで支援してくださった皆様への感謝の気持ちは言葉では言い尽くせません。 李 幸心(イ・ヘンシム)さん 女性・75歳 毎朝、補償をしてもらえるように神様にお祈りしていました。皆様のご苦労が実を結んでこのような成果を勝ち取れたと思います。感謝しています。日本で支援してくださった皆様と日本国民に神様の祝福がありますように、またご健康をお祈りします。 崔 贊秀(チェ・チャンス)さん 男性・78歳 今まで弁護団の皆様と支援してくださった皆様のご苦労のお蔭様で、このような法律ができたのだと思います。本当にありがたいことですし、感謝しています。日本時代の惨めな生活と苦労を考えると満足とまでは言えませんが、やっと補償をしてもらえることになったので嬉しく思います。ただ皆、日本時代の苦労のせいで、その後遺症に苦しんでいますし、高齢であるために一日でも早く、死ぬ前に補償金をもらえるようにしていただきたいのです。補償のこと本当に心から感謝しています。 姜 禹錫(カン・ウソク)さん 男性・80歳 このように早く成立するとは思ってもいなかったのですが、日本で支援してくださった皆様と国会議員の皆様が助けてくださったお蔭様だと思います。ご苦労に感謝しています。なるべく早い補償金の支給をお願いします。 |
| <楽生院> |
| 陳 石獅さん(82) 男性 悪い言い方で言えば、改正案の成立によって日本政府に意趣返しできたことになると思います。良く言うと、これをもって我々の正義が取り戻されることだと思います。とてもうれしいです。 心がすっきりしています。弁護団の聞き取りを受けて、マスコミにもよく出ていきましたが、やはり心の何処かで引け目を感じ、病気のことを広く知られたら恥ずかしいと思って、病気のことをいい加減に、適当に言ってきました。しかし、訴訟の経過に伴って、自分は病気になっただけで、何一つ悪い事をしていなかったことを悟り、いまは病気のこと言っても平気です。堂々と人と普通に接することがやっと出来るようになりました。 林 桂英さん (73) 女性 8歳で入所して以来、家族に見放されたり、人から差別を受けたりなどいろんな辛い思いを経験してきました。これで蒙って来た屈辱を晴らすことになります。非常にうれしいです。 汪 江河さん (78) 男性 強制隔離がなければ、いま私は家族と一緒にお正月を迎えているでしょう。長い間、冤罪のような屈辱を受けてきました。改正案の成立によって今まで受けてきた辛いことが報われます。正義が取り戻されると思います。弁護団に心から感謝します。 黄 金井さん (74) 女性 当時は日本人として強制隔離されたので、日本人と平等に補償されることがうれしいです。少し報われる気分です。しかし、社会の目はやはり気にしています。=弁護団ニュースから |
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在外ハンセン病療養所、
元入所者に800万円補償へ |
| 日本の植民地統治下の時代に、韓国や台湾など国外のハンセン病療養所に入所させられていた人たちに対する補償問題で、与党は補償額を国内入所者の水準に合わせて1人800万円とするハンセン病補償法の改正案を20日からの通常国会に提出する方針を決めた。すでに民主党とも調整を始めており、他の野党にも呼びかけて、超党派の議員立法で早期成立を目指す。
改正案によると、対象となるのは、戦争中、韓国、台湾のほか、パラオ、サイパンなど南洋諸島の国・地域にあった療養所施設に入所していた人たち。 在外ハンセン病訴訟の原告団によると、韓国・台湾の入所経験者は400人余り。厚生労働省が設置した第三者機関「ハンセン病問題検証会議」の調べでは、パラオなど南洋地域では1940年時点で少なくとも3カ所の療養所に68人の患者が強制隔離されていたことが分かっているという。 この問題をめぐっては昨年10月、東京地裁判決で、台湾訴訟について原告側の請求を認めたが、韓国訴訟は元入所者らの請求を棄却。国は敗訴した台湾訴訟について控訴したが、川崎厚労相は「新しい法の手当てが必要」として、救済措置を検討していくことを明らかにしていた。 国内入所者の補償額について、補償法では入所期間に応じて800万〜1400万円の4段階と定めている。原告側は「国内入所者らと同様の平等な補償を実施すべきだ」と求めていた。 |
| 一方、政府・与党内には「(貨幣価値の違いから)国外の療養所入所者への補償が高くなるなど不平等になりかねず、慎重な検討が必要」などの意見もあった。
厚労省が設置した検証会議は昨年3月にまとめた報告書で、植民地統治下の入所者について「日本国内の患者と同様の人権被害を受けた」と結論。また、原告の平均年齢が81歳を超え、原告団や検証会議から早期の救済を求める声が出ていたこともあり、与党内で一律800万円でまとまった。=1月19日 朝日新聞 |
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朗報を待つソロクト
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16日から19日まで、韓国のソロクトへ取材で行ってきました。昨日釜山に戻り、今朝(19日)7時のNHKのBSニュースを聞いていたら、「ハンセン病補償法を議員立法で改正し、韓国と台湾の原告にも日本人と同額の補償をする見通し」というニュースが流れました。すぐに、日本語がわかるソロクト入所者の金新芽さんに電話で伝えたところ、金さんは「それははっきり決まったことなのですか?」と、このニュースを静かに受け止めていました。 ソロクトへ行く前、今年は例年になく寒さが厳しいと聞いて、防寒対策をしっかり整えて行きましたら、ちょうど寒気が弛んだときにあたったようで、日中は手袋も必要ないくらいの陽気でした。 昨年1月初めに行ったときは、療養所にボランティアの学生や観光客があふれて活気に満ちていましたが、今回はボランティアも観光客も少なく、ひっそりとしていました。 なによりも変わった点は、お土産物屋ができていたことです。それだけ観光客が増えたということでしょうか。また植民地時代に建てられた古い住居も、きれいにペンキを塗り直し、縁側も補修されて見違えるほどでした。かなり住みやすくなったのではないかと思います。重度障害者用の新病棟や、住居も新しく造られましたし、建設中の建物も見かけました。1年で、療養所の様子がずいぶん変わったことに驚かされました。 |
| 何度も来日したことのある原告の李幸心さんを訪ねると、「いつも肩や腰が痛くて」と、日本語で言われたので、びっくりしてしまいました。金点任さんは、93歳のお姉さんの世話をしながら一緒に暮らしています。暖かいせいか、電動車椅子に乗って、一人で動き回っている蒋基鎮さんには、何度も会いました。 韓国語ができないながら、自治会長と東京の国際シンポジウムで再会することを約束して帰途につきました。 ソロクトからの帰り道で、「韓国と台湾の原告にも同額の補償」というニュースを聞いて、会って来たばかりのソロクトの皆さんの顔が浮かんできて、「ああ、よかった」と何度も繰り返しています。 1日も早い補償を! /文・写真(監禁室) 村上 絢子 |
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| 支援者の拍手の中、尾辻厚労大臣と面会に行く韓国の原告、姜 禹錫(カン ウソク)さん(手前)と車椅子を押す台湾の原告、南 相鐵さん=27日午後 |
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ソロクトは不当判決 台湾は勝訴
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韓国ソロクト判決/東京地裁民事第3部 第103号法廷 台湾楽生院判決/東京地裁民事第38部 第103号法廷 |
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原告請求棄却の判決後、厚労省前の抗議集会に参加したソロクトの原告たち=25日午後
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韓国小鹿島(ソロクト)訴訟の
判決は 10月25日(火)です |
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東京地裁に入る、前列左から原告の蒋基鎮さん、金基顕さん、姜禹錫さんと日韓の弁護団、支援者たち。開廷前に傍聴席は満席となり、入り切れない人たちが廊下にあふれた。
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木一本、石一つにソロクトの血と涙 |
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ハンセン議懇の総会は、入れない参加者が別室で待機するほど盛会だった。まるで4年前の熊本判決の控訴断念を求めた集会を彷佛とさせる雰囲気がみなぎっていた。
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国会議員15人と前議員1人が出席 江田五月議員のメルマガ(7月21日付)に次のような記載があります。「(ソロクト裁判の)争点は、本件原告らに補償法の適用があるかどうかであって、法解釈の問題です。議員懇談会のメンバ
ーは、補償法の立法に直接関係しており、立法者の意思としては、少なくとも 本件原告らのような立場のものへの適用を排除する意思はありませんでした」 |
| 第4回、署名の集計中間報告です。 日本(1万5319筆)韓国(2万9699筆)台湾(795筆) これまでの合計は、24万筆を越えました。次回は8月23日が締め切りです。ぜひこれからも署名活動を続けて、ソロクト・台湾訴訟に勝訴するための運動の核になっていただけるよう、お願いいたします。(徳田靖之弁護士) 署名用紙は、ソロクト・楽生院訴訟弁護団HPへ |
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迫田学弁護士の意見陳述書
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2005(平成17)年7月19日
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| 1 私たち弁護団は、小鹿島更生園における被害を正確に余すところなく裁判所にお伝えし、日本国内のハンセン病療養所において「らい予防法」の名のもとに行なわれた人権侵害、熊本判決において「人生被害」といわれた被害と同じかむしろそれを上回るソロクトにおける被害の実態を十二分にご理解いただきたいと願って、原告らからの聞き取りに取り組んでまいりました。この願いを実現するには、韓国語で語られるお一人お一人の一つ一つの被害をその微妙な意味合いまで理解して伝えることができる法律家の力が不可欠でした。 私たち弁護団は、韓国の弁護士に協力を要請しました。私たちの要請に応じ、2004年7月、60名の弁護士からなる韓国弁護団が結成されました。 日本弁護団の聞き取りとは別に、韓国弁護団が母国語で聞き取りを行い、日韓両弁護団の共同作業により、原告らの陳述書が作成されました。 韓国弁護団は、2004年10月24日の第1回口頭弁論期日以来、今日まで、毎回欠かさず全てを傍聴し、訴訟の行く末を見つめておられます。 また、弁護団員自ら街頭に立つなどして、韓国国内において、本件訴訟の早期公正判決を求める署名10万6235筆を集約し提出されています。 韓国弁護団のこのような活動によって、韓国国内には大きな動きが生まれています。 韓国弁護団団長の朴永立弁護士は、「韓国のハンセン病問題及びこの訴訟の歴史的意義」について、次のように述べておられます。 2 「尊敬する裁判長及び陪席裁判官の皆様 私は、この事件つまりソロクトハンセン病補償金不支給決定取消請求に関する訴訟を支援するため結成された韓国弁護団の弁護士として2004年10月25日この裁判の第1回目の弁論期日から2005年5月23日の第5回弁論期日の間、原告本人の尋問が終わるまで毎回欠かさずすべて傍聴しました。先ず、真摯にそして誠意を持って審理を進めていただいた裁判所に対して敬意を表します。 韓国弁護団は2004年7月、日本弁護団からの要請により結成されました。 日本弁護団の協力要請を受けた大韓弁護士協会は全国の弁護士の中から自発的に参加した60名からなる弁護団を結成し、この事件の訴訟支援活動をしてまいりました。 韓国弁護団は日本熊本療養所の見学、ソロクト訪問、定着村訪問及びその調査結果を元に2004年10月11日には国会議員会館においてハンセン病人権実態報告大会を開催しました。元ハンセン病患者等400人余り、国会議員30名余りで会場が埋めつくされ、元ハンセン病患者達の涙の差別事例が発表されるたびに会場が参加者の涙で覆われるほどでした。 このような活動によって、影になっていたハンセン病患者の人権問題に光が当てられ、社会的関心事となるようになり、最近では国家人権委員会においてもハンセン病人権問題が政策課題とされ、すでに調査作業が進んでおり、国家人権委員会はこの調査結果を元に該当部署に政策勧告を行う予定です。 このような動きは、元ハンセン病患者だけでなく、社会的弱者達にも夢と希望を与え、韓国社会においてハンセン病患者は共に生きるべき私達の隣人であるという認識を広めるのに大きな働きをしています。特に、この訴訟はこれらの一連の活動のきっかけとして原告達に夢と希望を与え、ほぼ一生涯を恨みと悔恨の中で忘れられた日々を過ごして来た彼らに生きる目的、生きる意義を与えるものとなっています。 もっとも、この訴訟が勝訴につながる場合、これは韓国のハンセン病問題の解決に大きな影響を及ぼす画期的な事件になると思います。日本におけるハンセン病問題が2001年5月11日熊本地方裁判所の判決により解決の糸口を見いだしたように、それ以上の大きな影響を及ぼすと思います。韓国における熊本判決となるのに十分に値すると確信します。 この訴訟の主な争点は、ソロクト更生園がハンセン病補償法所定の療養所に該当するかどうかの問題です。 第5回期日では、原告本人尋問を通して日帝下においてソロクトに強制的に隔離され、収容された原告達は、日帝時代の日本本土と同じ強制隔離政策による被害者として、日本の国立療養所よりさらに過酷な強制労役、神社参拝の強制、懲罰として断種手術等非人道的、非人倫的人権侵害を受けたことが明らかにされました。 日帝時代には、皇国臣民、内鮮一体の名の下に強制隔離、強制労役や強制収奪等を自ら行いながら、賠償や補償においては植民地を日本本土と差別するとしたら、これは社会正義及び平等原則に反します。司法が社会正義や平等原則に反する法律解釈及びその適用をするなら、これは司法が差別の論拠を提供することによって不平等を生み出す道具、手段に転じるあやまちをおかすことになると思います。従って、ハンセン病補償法の立法目的、社会正義、平等原則に照らして補償されなければならないと思います。」 3 4年前の熊本判決においては、らい予防法による未曾有の人権侵害を許してきた私たち法曹の責任が厳しく指摘されました。 今、韓国においては、司法の手によるまでもなく行政自らがハンセン病問題の解決に積極的に乗り出そうとしています。傍らで、わが国の行政は、補償はおろか被害の認否すら拒絶しているのです。補償法の解釈適用を通じて、わが国がもたらした未曾有の人権侵害について、司法がいかなる判断を示すのか、国内外の注目が集まっています。 朴永立団長の次の言葉をもって、意見陳述の結びとします。 「尊敬する裁判長及び陪席裁判官の皆様、 本件訴訟の結論如何が韓国社会のハンセン病人権問題の解決において重要な転機になるということを十分ご賢察いただき、賢明なご判断を切に訴えます。」 |
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5月23日(月)、ソロクト裁判の
原告本人尋問がありました |
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23日午前、東京地裁に入る原告の蒋基鎮さん(前列右)たち
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場所:東京・霞ヶ関の東京地裁103号法廷/時間:午前11時〜午後4時20分
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日本人職員に殴られ、蹴られた <原告本人尋問> |
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5月23日(月)午後6時開場、6時半スタート
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海を渡った隔離政策
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韓国ソロクト・台湾楽生院の
ハンセン病裁判を知る集い |
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韓国のハンセン病問題について語る金新芽さん(写真左)。自作「五月の街」を歌う宮里新一さん
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集会は、神美知宏全療協事務局長の開会の挨拶の後、ビデオを使ったソロクト・楽生院の紹介、国宗直子弁護士からこの裁判の解説、署名運動への協力要請などがありました。また原告支援のため、ソロクトから来日した金新芽さんのスピーチがあり、ミュージシャンの宮里新一さんが新曲「五月の街」を熱唱し、詰め掛けた350人の集会参加者に熱いメッセージをおくりました。=東京・永田町の星陵会館 |
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主催:海を渡った隔離政策〜韓国ソロクト・台湾楽生院のハンセン病を知るつどい実行委員会
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植民地時代、日本の暴力に支配された韓国・ソロクト
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| 写真右:分厚いレンガ塀に囲まれた監禁室。日本国内の療養所にある監禁室よりも、はるかに厳しく罰せられ、死ぬまで出られない場所と考えられた。すぐ隣には解剖室があり、解剖台と懲罰のための断種台が置かれている。 写真左:日本植民地時代の暴力の象徴ともいえる焼きごて。入所者の額や肩に押し当てた。現在生存している被害者はいなかったが、島内の長老に聞くと強制収容が激しく行われた時代に、拷問の道具として使われたという。 写真・八重樫信之 |
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生命の危機と闘う |
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DAYS JAPN 4月号(3月20日発売)に、ソロクト・ルポが載っています。
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心を一つにして頑張ろう! in高崎集会
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会の終わりに全員で合唱する参加者。中央は全生園の国本衛(李 衛)さん
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| ソロクト訴訟の支援を呼び掛ける県民集会が、5日午後、群馬県高崎市の市労使会館で開かれ、約150人の市民が参加した。北岡秀郎さん(熊本・ともに歩む会)がスライドでソロクトを紹介。次に国宗直子弁護士が、ソロクト訴訟の経過、意義、被害の実態、歴史的背景などについて解説した。 |
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国本衛(李衛)さんは、「ソロクトの原告と私たちは同じ歴史を歩み、苦しんできた。最後まで共に闘う」と決意表明。発起人の谺雄二(全原協代表)は「2001年の国賠訴訟で勝訴したけれど、問題はまだ解決していない。ソロクトの人たちは、よくぞ訴えてくれた。心をひとつにして、頑張ろう」と挨拶した。最後に、ソロクトから来日した原告の蒋基鎮(チャン・ギジン)さん、ソロクト自治会長の金明鎬(キム・ミョンホ)さんは、「日本の皆さんが温かく励ましてくれ、支えてくれています。これからも裁判支援をお願いします」と訴えた。 撮影:松田優二 |
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キム会長(左)と原告のチャンさん
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発起人の谺雄二さん
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ソロクトから来た原告の蒋 基鎮(チャン・ギジン)さん(中央)と東京地裁に入る日韓の弁護団/2月4日 |
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ソロクトは日本の国立療養所だった
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2月4日、午後4時、東京地裁103号大法廷は傍聴に駆け付けた人で満席になった。原告側代理人・鈴木敦士弁護士がソロクトはハンセン病補償法の対象となる国立療養所であるという弁論を展開した。「らい予防法で国立療養所とされている療養所が国立療養所だ」という国の主張に対して、鈴木弁護士は「らい予防法はどこが国立療養所だと決めている組織法ではない。療養所設立の根拠となる法律がバラバラで、一つの法律で設立されたのではない。人事交流、予算運営等の点で、国内とソロクト・台湾は同一視されていた」と主張。次に原告側代理人・野間啓弁護士が、「江田五月議員(補償法制定時のハンセン病議員懇談会会長)と、滝尾英二氏(朝鮮半島歴史研究家)の二人を証人申請した。 |
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次回期日は、4月13日(水)午前11時から11時30分。
次々回期日は、5月23日(月、午前〜午後の1日) |
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2月4日(金)、ソロクト裁判第3回口頭弁論
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16:00〜東京地裁 103号法廷
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18:00〜19:30 報告集会(弁護士会館 一弁講堂)
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弁護士から原告の主張と今後の進行について意見陳述します。 今回は原告の意見陳述はありません。
2月4日の弁論の前に、支援と原告本人らで、第1次署名提出を行い ます。まだ、手元に署名用紙をお持ちの方は1月30日までに菜の花法 律事務所に届くようにお送りください。 これに間に合わなくても、第2次、第3次提出を予定していきますので 今後もよろしくお願いします。 13:00以降 第1次署名提出 |
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2月5日(土)、ソロクト裁判支援・高崎集会
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14:00〜 高崎市労使会館
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高崎市東町80-1 電話 027-323-1598
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| 集会には、ソロクトから、第1回弁論の際に不自由な手を高く掲げて 意見陳述を行ったチャン・ギジンさんが来ます。 群馬県の方、あるいは関東一円の方、ぜひ高崎での集会にご参加くだ さい。 |
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ソロクト裁判第2回公判
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失った夢、家族との絆を返せ!
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東京地裁に入る韓国の国立ハンセン病療養所、 ソロクト(小鹿島)病院の原告と日韓の弁護団 |
| 17日午後2時から東京地裁103号法廷で、ソロクト裁判の第二回公判がありました。この日午前、日本の植民地時代に作られた台湾の「楽生院」に強制収容され、現在も同院で暮らす25人の元患者が東京地裁に提訴し、日本、韓国に続き3番目のハンセン病訴訟がスタートしました。日本が積み残した負の遺産を解決するための第一歩です。 |
| 第2回公判も103号大法廷で開かれ、1回目と同様、法廷に入り切れない傍聴者がいました。裁判の動きに関心が集っていると強く感じました。 |
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ソロクトから来た原告番号24番の女性(71)が意見陳述しました。車椅子に座った小柄な女性は、植民地時代に日本という国が韓国の患者に対してどんな罪を犯したのか、はっきりとした声で証言しました。 |
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10歳で家族と引き離され、トラックの荷台に乗せられてソロクトに強制収容された。母は何も言えず泣き崩れるばかりだった。私の胸は張り裂けそうだった。子どもでも労働の割り当てがあり、レンガ作り、石運び、松やに取り等をやらされた。凍傷になって、両手の指を失い、両足義足になってしまった。 |
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原告代理人の大槻倫子弁護士は、聞き取りに訪れたソロクトでの老いた原告たちとの出会い、初めて知った療養所内での凄まじい暴力、植民地であったがゆえの厳しい懲罰の実態について述べました。 続いて水口真寿美弁護士が、ソロクトと楽生院は植民地時代に日本が設置し、患者を強制収容した療養所であることと、収容生活の中で強制労働、懲罰としての断種などが行われた実態を国は認め、平等原則に則り、日本の療養所経験者と同じ補償をすべきだと訴えました。いまだに国が事実認否も証拠調べもせず、歴史の真実を明らかにしようとしないで、結審に持ち込もうとしている姿勢を厳しく糾弾しました。
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大槻 倫子弁護士の意見陳述
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| ソロクトは、全羅南道南部にある風光明媚な島です。 はじめてソロクトに行った時、この島の風景を見て、私は、日本の国立ハンセン病療養所と実によく似ていることに驚きました。 整然と立ち並ぶ居住舎。子どもの声が全く聞こえない、静まりかえった島。 監禁室。解剖室。火葬場。そして、日本のハンセン病療養所、長島愛生園のものと同じ「萬霊塔」という名が掲げられた、万を超える魂が眠る納骨堂。 それは、日本本土のハンセン病療養所とまさに同じ風景でした。 |
| ソロクトで私がはじめて出会ったのは、障害の重い方々が住む介護棟で暮らす女性原告でした。 日本から来ました、と挨拶した瞬間、彼女は、泣きそうな顔になり、すべての両手指が失われた、その小さな両手をさしのべ、一言こういいました。 「日本人のせいで、こんなになっちゃったんだよ。」 彼女は、幼くしてソロクトに収容されて以来、日本時代に強いられ続けたレンガ造りやカマス作りなどの強制労働のために、手のすべての指を失い、両足を失いました。 そして、母恋しさに泣き続け、「帰りたくて、帰りたくてたまらなかった」故郷にも、結局、帰ることができないままとなりました。 初対面のときにみせた、彼女の、あの小さな体全体で表現した悲しみの表情を、私は忘れることができません。 |
| ある原告は、両親とともにソロクトに強制収容されました。 1945年の春、彼女の父親は、石炭を療友に譲った、という疑いをかけられ、ただそれだけの理由で、酷い暴行を加えられました。彼女は、「お父さんが死んでしまうのではないか」と恐怖に震えながら、父親が角材で殴られ続ける鈍い音を聞き、父親の悲鳴を聞きました。父親は、血を吐き、まもなく亡くなりました。 彼女は、日本政府によって、両親のいるあたたかな家庭の中で育まれる機会を奪われ、両親の命を奪われました。 |
| 本日、意見陳述をした原告も、幼くして母親と引き裂かれて強制収容され、それ以降、家族とのつながりを絶たれました。中学校に行きたかった。島の外で暮らしてみたかった。その夢も、日本時代に強いられた強制労働による重い後遺障害のため、叶わぬ夢となりました。 私が今年の夏に聴き取りをした、80歳を優に超えたある女性原告は、日本時代に建てられた古い長屋の居住棟で暮らしていました。状態がおもわしくなく、短い聴き取りしかできませんでしたが、まだ10歳になるかならないかの子どもの頃に集団収容され、両親とは二度と会えなかったこと、毎朝暗いうちから仕事に駆り立てられ、星を見ながら帰ってきたこと、日本人職員が「この野郎、殺しちまえ!」などと怒鳴りながら患者を殴りつけ、大勢の人が死んでいったことを話してくれました。 そして、「何度もたたかれた。たくさん叩かれたときは、死んでしまいたいと思ったよ。」「子どもの頃に死んでしまっていれば、このような苦労をしなくてもすんだのに。」といい、最後に、「私たちが日本時代にどれほど辛い思いをしたか。私たちは本当にかわいそうだったよ。神様だったら、私たちの辛さをわかってくれるかしら。」と、消え入るような声でつぶやきました。 別れ際、手を振る私たちに対して、彼女は、何とも言えない悲しそうな目をしながら、小さな手をせいいっぱい伸ばして、「私も連れてって」と言いました。 彼女は、いったいどこに連れて行ってほしいと願ったのでしょうか。 日本人の一人として、日本の国が、このハルモニに対して、原告らに対して行ってきたことを、心から申し訳ないと思う気持ちでいっぱいになりました。 |
| 数ヶ月後、彼女を訪問しました。彼女は病棟で、もはや話ができない状態となっていました。 原告らの中には、彼女を含め、すでにお話を聞くことのできない状態に陥っている方が複数います。
昨年12月に補償請求をした後、この1年の間に、すでに多数の方が亡くなりました。 そして、補償請求をすることもできず、無念の思いを内に秘めたまま亡くなっていった方は、数知れません。 愛する家族と引き裂かれ、将来の夢を絶たれ、あるべき人生を奪われてしまった。ソロクトにおいて原告らが被ってきた被害は、まさしく熊本地裁判決が認定した被害そのものです。 そして、ソロクトが日本の植民地であったがゆえに、原告らは、暴力を背景とする過酷な長時間労働に駆り立てられ、殴られ、懲罰としての断種を強いられるなど、日本本土におけるよりもさらに激烈な被害を被ってきたのです。 |
| 今回、原告らのうち58名分の陳述書を提出しました。次回期日には、残りの原告らの陳述書も提出する予定です。 過酷な日本国の隔離政策の下でひたすら堪え忍び、生き残ってきた、数少ない、貴重な生き証人の陳述です。 これらは、日韓の弁護士の共同作業により、原告らから聴き取りをし、陳述書として完成させたものです。 この1通1通の陳述書の中には、それぞれの原告の苛烈な被害が語られています。 時間の制約の中で、私たちが聞き取ることができた内容は本当に限られたものです。原告らの被った被害の何万分の1にも満たないかもしれません。それでも、その内容は想像を絶するものです。 裁判所におかれては、これらの陳述書を、その言葉の奥に秘められた思いや被害に思いを致しながら、そして、今や陳述書を提出することができなくなった原告、原告にもなれなかった無数の被害者達の人生とその被害にも思いを致しながら、お読み頂きたいと思っています。 原告らが、日本国の隔離政策によって、日本本土におけるのと全く同様の被害を被ってきたことは、これらの陳述書をお読み頂ければ、おのずから明らかです。 裁判所におかれては、是非、原告らの被害の訴えに真摯に耳を傾け、その内容をしっかりと受け止めた上で、公正な判断を頂くよう、切に求めます。 |
| 被告国は、いまだに、ソロクトにおける被害実態は本件訴訟の争点ではない、などという主張を繰り返し、認否を拒否しています。 日本という国は、自らの推し進めてきた誤った隔離政策によって、ソロクトの人たちにもこれだけの被害を与えていながら、その事実から目を背け、否定し続けようとするのでしょうか。そうであればそれは、原告らに対する、そして無念の思いで亡くなっていった被害者らに対するあまりにも大きな侮辱、冒涜であり、断じて許すことはできません。 原告らは、同じ日本国の隔離政策により、同じ被害を受けたハンセン病回復者であり、当然に同じ補償を受けることができなければなりません。 被告はソロクトにおける被害実態につき早急に認否を行うべきであることを強く訴えて、私の意見陳述を終えます。 |
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ソロクト・ハンセン病補償訴訟 |
| 「日本のハンセン病補償法に基づく補償請求を棄却したのは、法の下の平等に反し違法」と、ソロクト病院の入所者110人が、国に棄却取り消しを求めた訴訟の第1回口頭弁論が東京地裁で行われた。入所者は日本の植民地時代に強制収容されている。103号法廷には、韓国や日本国内から支援者が駆け付け、熱気と緊張感が溢れる中で開廷した。傍聴者が多く、時間制で交代しなければならないほどだった。原告2人の意見陳述の要旨は下記の通り。 |
| <原告番号2番(男性)> |
| 1925年生まれ。15歳で発病し、天が崩れるような気持ちになった。 ソロクトでは、夜明けとともに作業開始し、レンガづくりなど、日没まで働かされた。食生活は貧しく、いつも空腹で、逃げ出す人も多かった。 1944年、工場で作業中、角材で左ひざを3発殴られた。傷が悪化し、医者が左膝を切断しようとしたが、麻酔が全然効かなかったので、この世のものとは思えない痛みに耐えかねて、叫び続けた。 ソロクトでは、働けと言われれば働くし、神社を拝めと言われれば拝むし、足を切ると言われれば、切るしかなかった。反抗すれば、監禁室に入れられて、殺された。だから、どんなに理不尽なことでも、従うしかなかった。 ソロクトは強制収容所だった。62年間、故郷には一度も帰ったことはない。入所したことを悔やんでも悔やみ切れない。 「裁判長、(切断された)私の左足を見てください!! そして、1日も早く補償をお願いします」。 |
| <原告番号4番(男性)> |
| 1921年生まれ。15歳で発病。巡査が来て、ソロクトへ行けば病気が治るし、食べ物も着るものも十分にあるからと、何度も勧めた。 私は家族に迷惑をかけるし、姉妹が結婚できなくなると思い、ソロクトへ行くことを決心した。行ってみたら、巡査の言ったことは、ウソだったとわかった。 病気を治すどころか、強制労働の毎日だった。私はキリスト教信者だったのに、神社の参拝を強要され、断ったら、呼び出されて、こん棒で何度も殴られた。1ヵ月間、監房に監禁され、罰として断種され、人間の命を絶たれてしまった悔しさは、言葉で言い表わすことができない。 入所当時、手の指は少し曲がっていただけなのに、労働によって傷が悪化し、終戦時にはすべての指が失われ、両足も切断した。 日本の植民地支配が終わって、解放された喜びでいっぱいだったけれど、不自由な身体になってしまったので、故郷へかえることはできない。 「裁判長、私たちは高齢で、いつまで生きられるかわからない。どうか公正な判断をしてください」。 |
| <徳田靖之弁護士の意見陳述> |
| ソロクトでの被害の実態は、ハンセン病隔離政策と日本の植民地政策とが合体した点にこそ、その特徴がある。日本国内の療養所とは異質な、暴力による支配そのものだった。 ノルマを定めた長時間労働、懲罰としての職員による殴打、さらに断種さえ行われていた。キリスト教信者に神社参拝を強要し、抵抗する者には容赦なく懲罰が加えられた。 本件訴訟で問われているのは、国連人権規約で定められている「すべての者は法律の前に平等である」という平等原則に他ならない。 私たちは、原告らの人間としての尊厳を犯し続け、その人生を奪った。そのうえ、その事実を放置し、無視し、隠ぺいし続けてきた。 わが国が、その統治下の韓国で行ったハンセン病隔離政策は、偏見、差別と迫害を韓国に根深く植えつけてしまった。 韓国の弁護士たちも、自らの不作為の責を認識しながら、日韓の弁護士が共同作業としてこの訴訟に取り組んでいる。 私たちはいま、国境を越えて、等しく人間の尊厳を守るための闘いに踏み出そうとしている。 私たちは、司法の世界に身を置く者として、悲惨な過去を乗り越え、人権の新たな地平を切り開く使命を担っている。歴史に応えうる裁判所の判断を切に希望している。 |
| <交流会> |
| 曽我野一美・全療協会長と谺雄二・全原協代表があいさつし、「この裁判を最後まで支援する」と熱いメッセージを送った。 |
| <集会> |
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夜の集会で印象的な場面があった。徳田弁護士が、最後のあいさつで「この集会に集った支援者の中に、国賠訴訟の原告が大勢いらしているはずです。原告の方、手を上げてみて下さい」と言うと、周りの人たちが一斉に手を上げた。胸を張り、誇らし気だった。 |
| 韓国のソロクト病院入所者117名(うち6名はすでに死亡)の「ハンセン病補償法」に基づく補償請求について、 厚労省は16日、請求を棄却しました。 |
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ソロクトの入所者、いよいよ提訴!
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| 日本の植民地統治時代に、韓国のハンセン病療養所「小鹿島(ソロクト)更正園」(現・ソロクト病院)に強制収容された、韓国人の元ハンセン病患者111人が、23日、ハンセン病補償法による補償が受けられないのは違法として、補償請求を棄却した厚労省に対し、処分取り消しを求める訴訟を、東京地裁に起こしました。また、小鹿島の別の入所者2人と台湾の療養所「楽生園」の入所者25人が、新たに補償を請求しました。 |
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記者会見で提訴について説明する野間弁護士(左から2人目)。 |
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韓国人入所者が厚労省に補償金請求へ
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| 共同通信ニュース速報 韓国南部の離島にあるハンセン病療養所「国立小鹿島(ソロクト )病院」訪問から帰国した日本の研究者や弁護士らの訪問団は十四 日、熊本市内のホテルで会見し、日本統治下で隔離政策による被害 を受けた元患者らに、日本政府に対する補償金請求を手始めに訴訟を起こすよう提案したと発表した。 同病院は日本の植民地時代に当時の朝鮮総督府が開設した施設が 前身。収容された患者らに厳しい強制労働を強いたとされる。一行 は今月上旬、現地を訪ねた。 訪問団の一人、ハンセン病国賠訴訟西日本弁護団代表の徳田靖之 弁護士が、国の却下を見込んだ上でハンセン病補償法に基づく補償 金請求を提案。却下決定の取り消しを求める裁判を国に対して起こ したいとした。 訪問団の発起人でハンセン病近代史研究者、滝尾英二さん(72 )も証人として裁判に参加する意向。「日本の残虐な行為を明らか にできるよう全力を尽くしたい」と話した。 |
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韓国・ハンセン病療養所
小鹿島(ソロクト)ルポ 西浦昭英 |
| 2003年8月7日から10日まで、小鹿島を訪問する機会があった。日本統治下での朝鮮ハンセン病史を研究してきた広島の滝尾さん、長島愛生園の宇佐美さん、大分の徳田弁護士や熊本の国宗弁護士など、総勢26人が参加した。 小鹿島は、全羅南道南端の島で、1917(大正6)年に、当時の朝鮮総督府が、朝鮮半島唯 一の療養所として開設した。1931年に制定された日本の「らい予防法」と同じ「朝鮮らい予 防令」に基づき、患者の強制収容が行われた。当初は 100人の定員だったが、戦争が進 むにつれて療養所を拡張していき、最大で6136人を収容した。戦後は回復者が定着村などを作り 退園していったが、現在も 748人が暮らしており,平均年齢は76歳である。そのうち115 人が、日本統治下での収容者という。 |
○療養所内の様子など ・監禁室の隣に解剖室がある。 ・解剖室には、当時の解剖台が置かれている。また、その隣は断種が行われた部屋で、 日本と同様、結婚の条件として断種が行われた。また、軽微な犯罪、例えば 燃料 用に木の枝を折ったということでも、見せしめとして断種が行われた。執刀したのは医 者ではなくて看護師が多かったようだ。そうした断種の件数は明らかではないが、かなりの数 になると思われる。 ・クリスチャンの割合は7割ぐらいで、長老教会が各部落ごとにある。また中心部に大きな 長老教会とカトリック教会がある。 ・病院の建設のために、島内の土を使って、多量の煉瓦・瓦を焼いた。この労働が大変きつく手足に重い障害が残った。 ・支援する団体のチャムギルは、夏冬の年2回ボランティアを行っており、今年の夏は 約 400人の高校生・大学生が参加した。チャムギルのボランティアの20周年ということで、 記念 のシンポジウムが開かれた。 |
| ○シンポジウム (主に弁護士の発言) ・日本は植民地時代に、小鹿島で残虐で非道な行為を重ねてきたが、政府は今日まで謝罪も贖罪も行っていない。まず、一弁護士としておわびをしたい。あまりに遅いという批判 を受 けながら、犯罪行為に私たちなりのけじめをつけたい。 ・国に対しての裁判には、賠償する権利を失う除斥期間の壁があり、20年以上経過した 事件の補償を求めることは難しかった。戦後補償の裁判も、除斥期間で敗訴が続いている。法律 家として、日本の国を訴えるのは難しいと考えてきた。 ・2001年5月、ハンセン病裁判で原告が勝訴した。その後、日本政府は、原告以外の元患者を救済するために「補償法」という法律を作った。この法律は、原告の増大を防ぐため に、裁判を起こさなくても補償金を払うという意図で作られた法律である。1日でもハンセン病療養所にいれば資格がある。 ・この法律に国籍条項がないし、原爆補償法のような居住条項もない。また、20年以上前に 療養所を退所していても適用される。長島愛生園に在園して後に韓国に戻り、現在は小鹿島に住んでいる韓国人も、今回の補償金を貰っている。 ・しかし、「補償法」は、国内の療養所に在籍という制限がある。いわゆる排外主義で ある。まずこの補償法を使って、日本の厚生労働省に請求をするが、補償法では小鹿島 病院を対象療養所としていないため、請求は棄却される可能性が高い。その場合は、棄却処分 の取り消しを求める訴訟を起こし、補償法が法の下の平等をうたった憲法14条に反していると追及したい。戦前に小鹿島で療養生活を送っていた証明があれば、勝てる可能性が高いだろう。同時に、小鹿島で行われた事実、日本国内よりひどい残虐非道の事実を明らかにしていきたい。 ・裁判を起こすことについては、小鹿島の被害者を支援しているチャムギルの方々の気持ちを第一にしたい。もし提訴になれば、滝尾さんの協力を得ながら日本で弁護団を作り、協 力し ていきたい。 ・既に亡くなった患者の遺族は対象にならない。また、戦後の入所者も対象にはならない。 また、原告が1人出て法律が変われば、残りの人は原告にならなくても補償金の対象となる。 ・「裁判を起こして判決が確定しても、国会がその法律の変更を認めないと、効果はないのか?」という質問については、「そうはならない」。 ・日帝時代ならば、小鹿島に短い期間でも入り、現在は退園した人でもOKである。 ・現在小鹿島に入所している元患者のうち、日帝時代の経験者は 115人であり、名簿を 作ってある。裁判の準備を始めている。 ・韓国側の支援団体「チャムギル」のメンバーからは、「貴重な提案で、これからの運動方針としても意義深い。何を準備すればいいか教えてほしい」などと積極的な意見が出た。 ・入所者自治会の姜大市会長ら韓国側も「今後、情報交換など協力しながら進めていき たい」と前向きの姿勢を示した。 |
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K.U.さん 79歳の証言 |
| C.G.さん 83歳の証言 1921年6月17日生まれ。 昭和16年、20歳の時にソロクトに入った。 故郷は慶尚北道青松(チャンソン)。周防園長のとき。 最初に1度警察が来た。南にソロクトというところがあるので行かないかと言われたが断った。2年後また来た。貧しくて、兄弟の結婚問題もあったので、行くこと にした。トラックでテグを経由してプサンに来て、プサンから船でソロクトに来 た。テグでは愛楽園で1泊した。3日かかった。 行きますと言ってすぐ来たのではなく、1ヶ月くらい間があり、行く日が決まり、その日に来た。 懲罰は冷たい水をかけたり、打たれたり、いっぱいあった。 働きに出なかったような人が対象になった。 本当に病気だとわかれば大丈夫だが、仮病だと対象になった。 いろんなことをした。レンガ、カマス。松の木を切ってヤニを取ったりした。今 も傷が残っている。公園も自分たちの手で作った。佐藤というひどい看護長がい た。院長の銅像を作って参拝に行った。院長を刺した人がいた。 佐藤は、しょっちゅう打ったりした。自分たちを獣のように扱った。「お前たち10人よりは、山にある松の木1本の方が大事だ」と言っていた。食べ物もなかったし、薬もなかった。我々は傷が一度できると治らないし、化膿したりして、傷 がひどくなりすぎて、肢体不自由になった。包帯とかするけれど、 仕事をするとすぐに取れる。傷もすぐに広がる。 当時はもちろんここには入らないほうが良かった。何回考えても、入らない ほうが良かったというのは当たり前のことでないですか。 注射されて神経が引きつれて死んだ人が何人もいる。ねじれて死んだ人が何人もいるから、怖くて診察に行かなかった。研究のためだと思う。治療については何の説明もなかった。大風子油は知っているが、それではない。それで20人くらいは死んだと思う。昭和18年かそのころのことだったか、よく覚えていない。注射をされてすぐに神経が引きつれて、1日か 2日で死んだ。みんな人体実験だと推測していた。実際はわからない。何の説明 もないから我々にはわからない。そのときは日本の医者だったし、看護士も日本の 看護士だった。日本語でしゃべらないと診察もしてくれず、日本語を覚えさせられた。 (日本に対しては?)その時代の人が悪かった。今の人は子孫だから悪くない。私は クリスチャンだから、いつも日本がうまくいくよう祈っている。 (裁判を起こしたいが)やります。日本に行かなければならないか? (可能なら、裁判官をここに連れてきたい)裁判したらどうなるか? (日本の政府に謝罪をさせる。補償をしてもらう。) ソロクトの話をしようとしたら時間がどれだけあっても足りない。 日本で裁判があって勝ったことはうわさで知っていた。自分たちにも何かいい恵 みがあるかもしれないと思って安心した。 断種の経験は私はない。そのときたくさんやられたけれど自分はない。監禁され た人はたくさんやられた。 1回監禁されたことがある。自分はクリスチャン だから神社の参拝に出なかった。それで監禁された。1週間監禁された。食事は何もくれなかった日もあるし、1食だけのときもあった。ひどくはなかったが打たれた。 そのとき自分は若かったし、打たれたけれどあまりひどくはなかった。監禁室の床はセメン トで冬は寒かった。監禁室は今は広くなっているが、当時は狭かった(仕切られて いた)。その後は参拝に行くようになったが、おじぎはしなかった。見張りがいて、おじぎをするかどうか見ていて、見つかればやられた。 家の仕事は農業だった。 |
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●「補償法」の広報について (西浦の個人的見解) |