このページはハンセン病の歴史と問題点を説明したものです。
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【陶芸サークル活動】
現在のハンセン病療養所入所者の生活の様子です。
 全国15箇所の療養所に約4500人の人たちが生活しています。 療養所の人たちの平均年齢は74歳です。

【食事】
 各部屋に届けられる食事。朝食は7時30分頃、夕食は4時30分頃に届けられます。
【告別式】
 園内で亡くなった方の告別式の様子です。
 (船元康子氏撮影)
 
【プロミン注射】
 ハンセン病は、もともと伝染性がきわめて弱い病気です。1943年に、治療薬プロミ ンが開発されて以降、次々と治療薬や治療法が発達し、現在では完全に治癒する病気とな っています。
【リハビリテーション】
 療養所に暮らす人のほとんどは、完全に回復しており後遺症による身体障害を残して いるにすぎません。
 国際的には、プロミン登場以後、早期発見・早期治療と人権の尊重を主眼とする政策が 次々とすすめられてきました。 ところが、我が国では、「らい予防法」のもとで、ハンセン病患者に対する強制隔離政 策が1996年まで継続されてきました。
【無らい県運動】
 このスライドは、戦前、国家主義思想の高まりを背景に行われた「無らい県運動」によ る、患者の強制収容の様子を撮影したものです。
 国によるハンセン病患者の隔離・撲滅政策1907年に制定された「癩予防二関スル 件」という法律に始まります。
 【無らい県運動】
  一九三一年(昭和六年)には法律が改定されて「療予防法」となりました。「民族浄化」 「無癩日本」のかけ声のもと、全ての患者を強制収容・隔離して、新たな患 者発生を絶滅させようという政策が押し進められました。
【無らい県運動】
 各県の衛生当局と警察は「無らい県運動」と称し、しらみつぶしに患者を探し出し、強 制的に療養所に送りこみました。 患者の家は見せしめのように徹底的に消毒されました。これによって地域の人々の病気 に対する恐怖心があおられ、患者とその家族に対する差別が強まっていきました。
【炭背負い】
 当時の強制隔離施設は、療養所とは名ばかりで、実態は強制収容所そのものでした。
(趙 根在氏撮影)
【そりを引く】
 医療らしい医療はほとんどなく、患者作業という名の過酷な強制労働と貧しい食糧事情 のために病気がさらに悪化し、後遺症に苦しむことになった患者も少なくありません。
(趙 根在氏撮影)
【重監房】
  療養所では所長の権限で患者を懲罰することが懲戒検束規定という名の法律で認められ ており、入所者は些細なことで食事を減らされたり、狭い監房に入れられたりしました。
【重監房】
  草津の栗生楽泉園の特別病室とよばれた監房では、零下18度という厳しい寒さと、一日 おにぎり2個、水二杯という貧しい食事のために、9年間に22名が死亡しました。 逃走が最も重い罪とされていました。患者は犯罪者ではなく、療養所は刑務所ではない にもかかわらずです。
【園内通用券】
 入所時に持っていた現金はすべて取りあげられ、療養所内でしか通用しない園内通用券 に交換させられました。逃走を防ぐためです。

【ホルマリンづけ標本】
 患者が、施設内で結婚する場合は、断種や妊娠中絶が条件とされました。患者絶滅政策 の実践です。  断種は、1992年まで続き、男女合計1400件に及びました。患者たちは子どもを産 んで家庭生活を築くことすら禁じられたのです。
(趙 根在氏撮影)

【全患協運動】
 戦後も貧困な医療水準、生活水準のままだった療養所で、「プロミン獲得闘争」と呼ば れる入所者自身による運動が起きました。この運動は、全国の療養所で取り組まれ、入所 者自治会の全国組織である全患協が結成されました。
【全患協運動】
 全患協は、らい予防法による被害を告発し、療養所入所者に自由と人権を、と訴えました。
【新らい予防法】
 しかし、1953年(昭和28年)、国は、新しい「らい予防法」を制定し、強制隔離政 策を永続・固定化する政策を選んだのです。 多くの患者が引き続き様々な人権侵害にさらされることになりました。
【邑久高校】
 1955年(昭和30年)、長島愛生園内に岡山県立邑久高校新良田(にいらだ)分校 が開校しました。
【邑久高校】
  青少年の患者に高等教育を保障したいという入所者の要求にもとづくも のでしたが、帝望に燃えて全国から集まった生徒たちに対し、大部分の教師たちは白衣で 身を固め、生徒とは手も触れず、職員室への生徒の立ち入りを禁止するという態度でした。
【全患協運動】
 療養所内での生活改善も、全患協と各地の療養所入所者自治会の要求闘争によってかち とられてきたものです。 これに対して、国が積極的に、ハンセン病患者・回復者への社会復帰支援策、偏見の克 服のための施策を行ったことはありません。
(趙 根在氏撮影)
【手紙】
 栗生楽泉園を1965年に退所した中原弘さんは、自立してマッサージ師の資格をとる ために各地の盲学校へ入学希望を出し続けました。左は学校側から中原さんに届 いた手紙です。「らいは治らないと聞いている」などの理由により、入学希望は拒否され 続け、中原さんが希望の学校に入学できたのは7年後の1972年でした。
【菊池恵楓園の壁】
 療養所に今も残る、一般社会と療養所とを隔てる壁。 日本では、1996年にらい予防法が廃止されてからも回復者の社会後帰はすすんでい ません。 予防法廃止時に、国は社会復帰支援を約束しましたが、その内容は、退所時にわずか2 50万円を限度として、領収書と引き換えに実費を支給するというものでした。これでは 自立した生活の基盤を築くことは困難です。
【納骨堂】
 療養所の納骨堂に眠る入所者のお骨。お骨になっても帰れないと言われた療養所の状況 は、今もそのままです。 ほぼ一世紀にわたる強制隔離政策によって強められたハンセン病患者と回復者に対す る差別と偏見。それはらい予防法廃止によって、すぐに消えてなくなるものではありませ ん。
【新聞】
 らい予防法が廃止に向かって動いていた1995年、新聞に左のような投書が掲載され ました。
「娘よ、たぶん、お前も読んだであろう。日本らい学会が、長年の誤りを反省し、 らい予防法の廃止を提言し、それにともない患者に対する人間差別が改められる日も近い という一連の記事が掲載されたのはこの4月のことであった・・・この父は、ひそかに期 待した。51年間、なんの音信もなかった、お前からの便りを。だが、それもむなしく裏 切られたまま、半年も過ぎようとしている。  娘よ、何が、お前の心を妨げているのか」(東京都、北原三郎、85歳、坂名)。
  多く の患者・回復者が、今も、同じ思いをもったまま過ごしています。
【レプラコンプレックス】
  これは、ハンセン病患者、回復者の側にある、療養所の外 に出ることをおそれる気持ちをあらわす言葉です。らい予防法が、患者に対し、一般社会 に存在してはいけない者という烙印を押し続けてきたために、入所者は、園からちょつと 外出することにさえ引け目を感じる状況におかれてきたのです。
【提訴時の新聞】
 1998年に熊本で、続いて東京と岡山で、ハンセン病国家賠償請求訴訟が提起されまし た。原告は増え続け、支援の輪も広がりつつあります。

 らい予防法は、「ハンセン病患者は疫病をまき散らす危険な存在であり、強制隔離され、 絶滅されるべき存在である」という烙印づけの法的根拠となりました。この烙印によって、 社会には根強い偏見と差別感情が生じました。その結果、一人一人のハンセン病患者、 回復者は、日本国憲法で絶対的に保障されている個人の尊厳を否定され、社会の中で自由 に人間として生きる権利を奪われました。  いま、多くの入所者、社会復帰者が、人間を人間として扱ってこなかったこの国の歴史 を問い直し、人間として生きる権利の回復を求める裁判に参加しています。
   

 このページで使っている「ホルマリン漬けの胎児」や「炭運び」の写真を撮った趙根在さんは、1950年代から全国の療養所に通い、ハンセン病者の生活を克明に記録した在日朝鮮人カメラマンです。70年安保、沖縄闘争、足尾鉱毒事件など記録映画やドキュメンタリー製作にかかわりました。1997年に64歳で病死した後、残された貴重なプリントを写真集にまとめる活動が始まり、この度「趙根在写真集 ハンセン病を撮り続けて」として草風館から出版されました。
左は趙氏が撮影したハーモニカをふく入所者

写真と文章は昨年2000月10月15日に行われた支援集会で上映されたスライドをもとにしました。