台湾・楽生院

国の台湾訴訟控訴に対する弁護団の声明です。

楽生院最新情報 2007/4/5
 楽生の現状保存と地下鉄車庫の両立を可能とする代替建設案 <http://blog.roodo.com/hansentaiwan/archives/2961913.html> が、国の文化管轄省庁(文化建設委員会)の依頼により英国の地下鉄建設コンサルタント会社によって作成され、2月に内閣に送られました。しかし、旧正月の休暇を挟んで、内閣は適切な検討作業を経ずに地方自治体に対し、取り壊しのゴーサインを出しました。このことが今回の強制移転執行の行政側の根拠となっています。
 その後、与党の大統領選候補者選びに出馬を表明している游民進党主席・前行政院長謝長廷氏が楽生院保存への支持を表明し、その後、陳水扁総統がこの問題に強い関心を示すをと共に遺憾の意を表明し、内閣に対して適切な処理を指示しました。
結果、首相はこの手続きに一部落ち度があったことを認め、3月末より内閣が両案の再検討の余地がないかについて調査を始めました。しかし、正式に工事の一時中断を指示することはありませんでした。また、地方自治体も4月16日に予定通り取り壊すという強硬な態度を崩していません。
 また、こうした政府の態度軟化に対し、地方自治体、また地下鉄開通による開発利権に絡む地元国会議員・地方議会議員らは強く反発し、「地下鉄の早期開通のために楽生院を取り壊せ」というスローガンを打ち立てて、一万人の市民を動員して楽生院を包囲するというデモを行いました。デモの動員にあたっては新荘市長が発起人となり、新荘市役所が積極的に支援しました。
 このデモによって未だ地元で根強いハンセン病への差別が増長され、入所者たちは「経済発展の邪魔者」という汚名を着せられました。こうした、差別・偏見の助長は到底許されるものではありませんが、それ以上に入所者たちの心に再び深い傷を残す結果となったことを記しておかなければなりません。
 また、昨4月4日には、台湾国会にて「ハンセン病人権保障法案」の与野党協議が行われましたが、入所者の在園保障・居住権などを謳ったこの法案に不満を持つ地元新荘市選出の国会議員らは、この協議が行われている会議室に乱入し会議の妨害を行った挙句、協議を中止させるという、民主主義を踏みにじる蛮行に及びました。
 こうした事態に直面した入所者の中には、「身体を張ってでも楽生院を守る」、「楽生院とともに死ぬ」といった決意を表明する者もいます。
 引き続き、ご支援をお願いします。

声  明
2005(平成17)年11月8日
     小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団   代 表   国 宗 直 子
 本日、政府は、閣議後の会見において、東京地方裁判所民事第38部が言 い渡したハンセン病補償金不支給処分の取り消しを命じた判決について控訴する 方針を明かにした。
 控訴は、生きて解決を得たいと願う原告らの悲痛な願いを踏みにじるもので 不当という他はない。我々は深い憤りを持ってここに抗議する。
 政府は「訴訟について控訴することとは別に、国外の療養所の元入所者に対 する適正な補償のあり方について、速やかに検討することとしたい」としている が、原告らの平均年齢は81歳を越え、今年7月19日の小鹿島更生園に関する 訴訟の結審から現在までのわずか3ヶ月の間に5人が亡くなっている。原告らに は、控訴審の判断を待つ時間はない。原告らの請求を認容した民事38部の判決 はもとより、同3部の判決も現行の補償法下で告示に占領下の療養所を含めて規 定することは可能であるとの解釈を示しているのであるから、適正な補償をする というのであれば、控訴を断念したうえで告示を改正するというより現実的な方 法により、解決を急ぐべきであった。
 閣議後の会見において、政府は国内の療養所の入所者と補償金額に差をもうけ ることについて明確には否定していないが、原告らはわが国の隔離政策の被害者 としてわが国のハンセン病患者と同等もしくはそれ以上に過酷な被害を受けてき たものであり、日本国内の療養所の入所者と補償金額の格差をつけることは、平 等原則上許されない。
 また、小鹿島更生園・台湾楽生院以外の占領地の療養所入所者に関する補償の 検討の必要性にも言及されているが、既に被害実態が明らかになっている2園に ついての救済を遅らせる理由とはなりえない。
 我々は、原告らの早期の平等補償を勝ち取るまで全力で闘う決意である。
 政府が真に早期解決をめざすというのであれば、その具体的な方策について、 原告・弁護団との協議の場をすみやかに設けるべきである。
 本日、政府が控訴を選択しながらも、新法制定等による補償方針を打ち出さざ るを得なかったのは、我々の活動に対する国内外の多くの方々のご支援によるも のである。引き続きのご支援を賜りたい。
                           

厚労相 台湾訴訟の控訴を発表
 日本が統治時代に韓国と台湾に開設したハンセン病療養所を巡る裁判で、国が敗訴した台湾訴訟について、川崎二郎・厚生労働相は8日の閣議後会見で、控訴することを正式に発表した。同日午後、控訴した。一方で控訴とは別に、韓国、台湾に加え、パラオ共和国とサイパン(米国自治領)、ヤップ(ミクロネシア連邦)、ヤルート(マーシャル諸島共和国)を含め国外の療養所の入所者に対し、適正な補償をするため、省内で検討し速やかに結論を出す考えを示した。
 川崎厚労相は、ハンセン病補償法は国外の入所者を対象にしていないという国の主張を繰り返し、台湾訴訟の判決とは解釈が違うため、「控訴して上級審の判断を求めることにした」と話した。
 しかし、植民地下の韓国、台湾の入所者について「日本国内の患者と同様の人権侵害を受けた」との指摘があり、補償が課題になっていた。
 一方、控訴の方針を受け、韓国・台湾訴訟の原告と弁護団が8日会見し、「生きているうちに解決してほしいという原告の悲痛な願いを踏みにじるもので不当」とする抗議声明を発表した。台湾訴訟の原告、陳石獅さん(82)は「日本時代に犯罪者のように扱われて強制的に入所させられたのに、なぜ国は控訴するのか」と批判した。【江刺正嘉、玉木達也】=毎日新聞
=厚労省前に集った支援者に「私たちにはもう時間がない。今日控訴したと聞いて、とても不安です」と訴える台湾・楽生院の原告、陳石獅さん(手前車椅子)/11月8日午後


(日本政府控訴の知らせを聞いて)

黄燦桐さん: せっかく勝訴したのに、控訴の知らせを聞いてがっかりしています。なんとか、早く解決してください。
汪江河さん:言葉もありません。あと何年生きられるか 分からないので、もうこれ以上先延ばしにしないで下さい。どうか、お願いします。
林却さん: 最後まで控訴しないで欲しいと願っていました。なんと言っていいのかわかりま せん。とにかく早く解決して欲しいです。

厚労省から出された控訴の方針です

台湾ハンセン病補償訴訟判決への対応について
平成17年11月8日
 去る10月25日、東京地方裁判所で言い渡された「ハンセン病補償金」の不 支給決定をめぐる2件の訴訟では、戦前、国外のハンセン病療養所である「小鹿 島更生園」(大韓民国)及び「楽生院」(台湾)に入所していた方々が補償金の 支給対象に含まれるか、という同様の争点で争ったにも拘わらず、司法判断が分 かれる結果となりました。
 厚生労働省といたしましては、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の 支給等に関する法律」(補償法)は、その前文にもあるように、「昭和28年制 定の『らい予防法』においても引き続きハンセン病の患者に対する隔離政策がとられ、加えて、昭和30年代に至ってハンセン病に対するそれまでの認識の誤りが 明白となったにもかかわらず、なお、依然としてハンセン病に対する誤った認識 が改められることなく、隔離政策の変更も行われることなく、ハンセン病の患者 であった者等にいたずらに耐え難い苦痛と苦難を継続せしめ」たことが、国内の ハンセン病療養所の入所者等にもたらした精神的苦痛を慰謝することを主眼とす るものと理解しており、現行の補償法は、国外の療養所の元入所者を対象とする ものではないと考えております。
 「台湾ハンセン病補償訴訟」判決は、こうした国がとっている補償法の解釈と は異なる立場に立っており、さらに、上記のように判決結果が分かれていること から、控訴して上級審の判断を求める必要があると判断いたしました。
 一方、補償法の立法過程では、戦前に現在の大韓民国又は台湾に設置されたハ ンセン病療養所に入所していた方々への対応については、当時のハンセン病対策 の内容を十分に把握していないとして今後の検討課題とされた経緯がありますの で、訴訟について控訴することとは別に、国外の療養所の元入所者に対する適正
な補償のあり方について、速やかに検討することとしたいと考えております。

ソロクトは不当判決 台湾は勝訴

韓国ソロクト判決/東京地裁民事第3部     第103号法廷
 午前10時。テレビ局の撮影が始まった。廷内には緊張感がみなぎっていた。撮影終了直後、鶴岡稔彦裁判長が判決主文を読み上げた。「原告の請求を棄却する。原告は、ハンセン病補償法の対象とならない」と言ってすぐに席を立ち、法廷から出ていった。
 「ア〜ッ!」という、女性の悲痛な声がしたあと、廷内は真空地帯になったように静まり返った。だれもが言葉を失った瞬間だった。
 弁護団が立ち上がって判決文をチェックし始めた。通訳から敗訴と知らされた原告の蒋基鎮さんが呆然として、弁護団を見つめる横顔が印象的だった。
鶴岡裁判長が判決主文を読み上げて退廷するまでの時間はごくわずかで、テレビ撮影の2分間より短かったのではないか。

台湾楽生院判決/東京地裁民事第38部      第103号法廷
 午前10時半。30分前にソロクトの敗訴判決があったばかりなので、傍聴席は重苦しい雰囲気に包まれていた。菅野博之裁判長が判決主文を読み上げた。「被告の不支給決定を取り消す」と言ったあと、丁寧に主文、判決骨子の説明を続けた。
 「ハンセン病補償法は、広く被害者を救済するための特別な立法である。隔離政策により心身に傷を受けた被害者に広範な補償をすべきである。入所歴がいくら古くても時効や除斥期間はない。国籍や居住地制限もない。台湾は日本の施政権が及んでいたのであるから、補償法の対象から除外する理由はまったくない。平等原則にのっとって補償すべきである。台湾楽生院は日本の国立らい療養所に該当する」と、原告の訴えを全面的に認めた明解な判決に、傍聴席から一斉に拍手が沸き起こった。けれどその拍手は、ソロクトの不当判決のあとだっただけに、深い安堵感のこもった拍手だった。


25日午前10時半過ぎに出された台湾勝訴の旗(写真左)

写真下は、勝訴判決に笑顔を見せる楽生院の原告、黄金涼さん(右)と王江河さん(左端)

 



  台湾楽生院訴訟
   傍聴メモ

 2005年8月29日 午後2:00〜
 東京地裁103号法廷

 楽生院訴訟の結審ということもあって、台湾とソロクトから原告4人の他、弁護団、支援者たちが来日した。法廷には、鹿児島、草津、熊本などの遠方からの支援者や退所者の会が詰めかけ、傍聴席は開廷30分前には満席となった。
原告本人尋問:汪洪河(ワン・チャンフー)さん
<原告代理人・久保井摂弁護士の尋問>

 6人兄弟の長男で、祖父母に可愛がられて育った。ガキ大将だったが、ハンセン病と診断されてからは、人目を気にして隠れていた。医者は「伝染病だから、楽生院に行かなければいけない」と言ったけれど、毒殺されるのではないかと心配だった。
 12歳のとき、明け方に予告もなしに警官が2人で来て、収容された。母はずーっと泣き続けていた。家族と永遠の別れになると思った。患者専用の列車に乗せられ、駅で歩いたあとは消毒された。
 入所して、大人と一緒の寮に入り、ボタン掛け、買い物等の手伝いをした。外出禁止で、1日3回、巡視が見回りをしていたし、生活面も監視していたので、怖かった。断種、堕胎されるということは知っていたし、胎児の標本を見たこともある。生まれた子どももハンセン病になると教えられた。
 1日に2人ぐらい飢えで死んでいくので、逃げ帰ったことがある。実家に帰ったら、すぐ警官が来て、楽生院に帰れと言われた。戻ったら、指導員から棒で殴られた。
 入所後、衛生署の人と医者と看護士が来て、家族検診を年に2回やったので、近所の人たちから嫌われた。
 母の葬式に出たけれど、案内状にひ孫の名前まであるのに、自分の名前は載っていなかった。それは、長男が楽生院にいることが知られるとまずいからだ。
 兄弟とは付き合いはあるが、食事会に出ても、大皿から自分で料理を取り分けることはできなかった。食事会へ行かなくなったのは、こんな姿になってしまったというコンプレックスがあるから。
日本政府に言いたいことは、強制収容されなければ、故郷で自分の家族と一緒に暮らしていたはずだ。今日のようには(終生隔離)ならなかった。
<被告国側代理人の尋問>
 「陳述書には、家族検診について『母からの手紙で知った」とあるので、手紙に書いてあっただけではないか」という質問に、「手紙でも、面会に来た母からも『家族検診をされるのは、あんたのせいだ』と言われた」と反論。
徳田靖之原告側代理人の陳述
 訴訟記録に目を通すと、原告と被告の争点が噛み合っていない。勅令によって設立された台湾楽生院は、厚労大臣告示1号の国立ハンセン病療養所に合致する。被告は法解釈のすり替えをして、原告の主張を理解していない。原告は、日本国内の戦前の入所者と平等に扱ってほしいという、ささやかな願いを主張しているにすぎない。法律適用の不平等が許されていいのか。この裁判では、日本の司法の良識が問われている。
被告国側代理人の陳述
 厚労大臣告示によれば、台湾総督府らい療養所・楽生院は補償の対象外だ。法解釈上、補償はできない。
10月25日 午前10:30 台湾楽生院判決
10月25日 午前10:00 ソロクト判決

ソロクト・楽生院裁判を勝たせるつどい

<裁判経過説明>国宗直子弁護団代表
 ソロクトの原告は117人、楽生院の原告は25人。どちらの訴訟も10月25日に判決が出る。争点は、議員立法によって制定されたハンセン病補償法が、両療養所を対象としているかどうかという法解釈にかかっている。日本の植民地時代に強制入所、強制労働、断種・堕胎を強要されたにもかかわらず、補償法の適用を受けられないのは、不平等であるという原告たちの正義の問いかけである。被告国は、被害実態の認否をしないで裁判が終了した。
<原告の訴え>大槻倫子弁護士のインタビューに答える。
 リ・ヘンシンさん/両親とソロクトへ強制収容された。父は石炭箱で殴られたことが原因で死亡。10歳ごろ、強制労働でノルマを果たさなければならなかった。どれほど貧しい生活だったか。
 汪洪河さん/強制隔離によって、あるべき人生を奪われた。裁判所は、被害をしっかりと受け止めて、判決を書いてほしい。
 キム・ジョンニンさん/ソロクトへ行けば病気が治ると言われて入所した。子どもでも、松ヤ二採り、カマス作りなどの強制労働があった。いつも空腹で、食べ物を探した。勉強が好きだったのに、凍傷で指が不自由になり、中学をあきらめなければならなかった。
 チン・セキシさん/日本統治下で収容されたのに、補償法が適用されないのは、筋が通らない。弁護団と支援者が、人権とは何であるか、尊厳を守るために国と闘う勇気を与えてくれたことに感謝している。
その他、5回目の来日をした将基鎮さんも会場に響き渡る声で挨拶した。
 <徳田弁護士からのアピール>
 この裁判では、日本の隔離政策について総括することが第一、次に、日本が植民地で行った犯罪的行為に対して、戦後補償をするということが第二である。さらに日本国民が、この問題をどれだけ自分の問題としてとらえられるかということが問われている。
しかし、現在の状況を見ると、国民の関心は大きく後退し、ハンセン病問題は解決済みという風潮が見られる。そこで、なにがなんでも控訴させないという運動を盛り上げるために、10月24日の判決前夜に1000人集会を実現させたい。
 <曽我野一美・全療協会長あいさつ>
 この裁判は、全療協としても放置できない。国賠裁判の延長線上にある。自分達の問題として、総力を挙げて取り組む。

台湾楽生院訴訟 第二回弁論
     同一の政策、同一の法律で被った
         同一の被害


東京地裁第103号法廷 午後3時〜3時40分

 梅雨の雨に濡れながら、谺雄二・全原協代表と、国本衛・同事務局長は、日本全国、韓国、台湾から集った早期公正裁判を求める署名(日・韓・台/19万8450筆)を裁判所に提出した。/6月15日(写真)
 法廷では、原告らが提出した準備書面の要点について、原告代理人・徳田弁護士が意見陳述をし、楽生院のビデオ上映があった。
<徳田靖之弁護士の意見陳述>
 原告らは高齢で、生きて勝訴判決を得たいと切望している。早期解決は至上命題だ。
(1) 準備書面の要点
 台湾の隔離政策の特徴は、「旧癩予防法」が勅令によってそのまま適用されたこと。したがって、楽生院は、「国立療養所」に含まれる。 日本に居住していたハンセン病患者や、戦地で発病した日本兵が直接収容されている。(=楽生院は「国立癩療養所」として機能していた証拠) 被害実態は、日本国内と同等、否それ以上に苛酷だった。
 日本国によって、同一の政策、同一の法律に基づいて被った同一の被害でるのに、なぜ楽生院が補償法の対象から除外されるのか。
(2) 補償法について原告が強調したい点
 1. 補償法草案過程で、江田五月議員は意見書で「法案(ハンセン病補償法)では、日本国籍も本邦居住も要件とせず、入所時期の限定もしていない。国内よりもむしろ苛酷な被害を受けたソロクト、楽生院入所者に対しては、当然同法の適用がうけられるべきだ」と明言した。
 2. 国会では、「同法はわが国のハンセン病隔離政策によるすべての被害者を対象としている」と明らかにされている。検証委員会の最終報告書でも、「楽生院もソロクトも、日本国内の療養所と同等に扱われている」との記述がある。
 3. 補償法は、熊本判決の賠償算定基準とは異なり、旧癩予防法下の戦前のみの入所者に対する補償法の適用に道を切り開いたものだ。
(3) 被告の主張の破たんについて
 1. 被告は、不支給決定の論拠として、「連続性」「内地限定論」「管制論」等を持ち出しているが、法案の起草段階や国会審議では全く論議されていない。被告の論理は、法解釈の常識を超えている。
 2. 楽生院は「国立療養所」と同視することが相当であり、原告らが補償法の支給対象となることは明らかである。
(4) 今後の審理について
 原告らは、日本国によって同一の政策、法律によって設置された療養所に入所させられ、同一の被害を受けたのにもかかわらず、なぜ除外されるのか。「平等原則」への問いかけが本訴訟の核心である。早期結審、早期判決を切望する。
<ビデオ上映>
 ・楽生院の紹介。入所者数343人。昭和12年設立。
 ・入所者の証言:指に傷ができると、切られ、しまいには折られて、指がなくなった。食事は粗末で、野菜を自分でつくって食べたけれど、空腹だった。逃げないと餓死すると、脱走して捕まると、監禁室に入れられた。面会者は消毒池を通った。面会用の部屋で距離を置いて家族と会った。死ぬと火葬された。 小学校では日本語の教育を受けた。
 私は犯人じゃない。それなのに無理矢理連れてこられ、ここに50年も、60年も監禁状態だ。
 1960年代に法廃止されたけれど、日本統治時代に植えつけられた偏見・差別意識は根強く残っている。家族との絆も断たれたままだ。

台湾の原告・周黄金涼さん証言
将来の夢も、家族も、愛した家も
すべて失いました 

東京地裁に入る韓国ソロクトの原告・姜禹錫さんと日本、韓国、台湾の弁護団/13日
             韓国ソロクト、台湾楽生院訴訟
 4月13日は、午前11時から韓国ソロクトの第4回口頭弁論、午後3時から台湾楽生院の第1回口頭弁論が、東京地裁の103号法廷で開かれました。午前、午後とも、広い廷内は、つめかけた傍聴者でいっぱいなりました。
 韓国ソロクトでは国宗直子弁護士が、原告側の代理人として意見陳述を行い、国側が療養所を内地、外地と分けて、外地のソロクトには補償法が適用できないとするのは合理性がないと反論しました。植民地時代、韓国の患者は日本国内と同じやり方で、ハンセン病療養所に強制収容・隔離されたからです。同弁護士は、大阪で収容された在日の患者が、あるものは長島愛生園へ、あるものはソロクトへと、選択の余地もなく収容された事実を挙げています。また、日本のハンセン病政策によって過酷な偏見・差別と身体的障害を受けた原告たちは、高齢になり残された時間は少ないので、公正な裁判により早期の決着をと訴えました。
 午後の台湾楽生院では原告・黄金涼さん、原告代理人の久保井摂弁護士、徳田靖之弁護士の意見陳述がありました。
 原告の黄金涼さんは昭和4年(1929年)台南市で生れました。小学校4年のとき改正名があり、先生に日本名「政子」と名付けられたということです。裕福な家庭に生まれながら、弟、妹の3人とも発病し、その治療に高価な漢方薬を使ったため経済的に追い詰められ、大きな家を売ることになりました。その後、3人は楽生院に入り、一家は離散しました。19歳で結婚したとき、日本時代からの決まりでご主人は断種されました。黄さんは長い間自分には人権というものがあるとは知らなかったといいます。補償請求の説明を受け、始めて自分たちにも人権があることを知ったそうです。最後に次ぎのように訴えています。
 「幼い頃、私が憧れていた日本に言いたい。私の家族を返して下さい。私の家を返して下さい。学校の先生になる夢を返して下さい。あなたが、私たちから奪ったものの大きさから、目をそらせないで下さい。お願いします」
 久保井弁護士は、植民地時代の日本のハンセン病政策が、台湾の人たちにハンセン病に対する根強い偏見と差別、過った認識を植えつけたと指摘しています。また、黄金涼さんについて次のように述べています。「黄さんは発病したとたん、すべてを失いました。将来の夢も、家族も、愛した家も。はじめてお会いして、補償請求の説明をしようとした私を、彼女は部屋に入れてくれませんでした。隔離され、社会から排除されている者、国に寄宿しているもの、といううしろめたさが、彼女を扉の蔭にとどめていました」。
 徳田弁護士は、補償法には国籍条項も居住地条項もない。日本国内、韓国、台湾で行われた同じ強制隔離政策で被害を受けた人たちは、同じ補償を受けるべきで、そうでなければ、平等原則に反すると意見陳述しました。
 夕方行われた報告集会では、韓国、台湾の原告の話と両弁護団の「一緒に闘いましょう」という力強いメッセージがありました。また、この日、日韓合わせて13万3千余の署名を裁判所に提出したと報告がありました。目標は50万人の署名です。
                 意見陳述
               原告ら代理人 久保井摂弁護士
 台湾楽生院は、台北県新荘市の町なか、昇天が建ち並び、ひっきりなしに車やスクーターが行き交う雑踏のすぐそばに、こつ然とあらわれます。およそ療養所に相応しくない険しい斜面を切り開くようにして、建設されました。
ハンセン病患者は、台湾全土から駆り立てられ、南から北に至る鉄道で、患者搬送専用の「お召し列車」に詰め込まれ、強制収容されました。
 「日本の警察が、ハンセン病は怖い病気だと大宣伝した。学校の先生も、町医者も、患者を見つけると通報した」。入所者は口をそろえてそう言います。
 夜明けの3時4時に自宅に踏み込まれ、罪人のように連行された屈辱を語って聞かせる人もいます。
ハンセン病は恐ろしい伝染病であり、台湾全土から患者ごと根絶しなければならないんだと、繰り返し喧伝し、住民一人一人を、患者を駆り立てる道具に仕立てる政策は、日本国内でとられたものと全く同じです。らい予防協会の設立、皇室の名の利用、日本人として台湾全島の浄化をはかろうという大宣伝。そのために、台湾の人たちには、ハンセン病に対する誤った認識と根強い偏見が植えつけられました。
 敗戦後、日本が去り、国民党政権になったあとも、その偏見と差別はそのまま引き継がれました。
台湾では、1962年に強制隔離の法制度そのものは廃止されました。けれど、日本時代に刻みつけられたハンセン病に対するイメージは今もそのまま残っています。
 時代は移り、台湾社会は経済成長を遂げ、楽生院の周辺も切り拓かれて、街が押し寄せ、楽生院は今、騒々しい町なかにあります。しかし、敷地内に一歩足を踏み入れると、そこには別世界が広がっています。設立時に建てられた事務棟や治療棟、患者宿舎が、ほぼしそのままの姿で存在し、75年前と変わらぬ集落があります。そこだけが時代に置き去られたかのようです。
 入所者はとうの昔に治癒していますが、強制収容に依り、故郷や家族とのつながりを断たれてしまい、外で暮らすすべを持たないため、療養所に留まらざるをえません。
 日本時代に日本名を付けられ、日本人としての教育を受けた入所者の皆さんは、私たちに懐かしい気持ちをもって、温かく迎えてくれます。長く使わなかった日本語を使い、日本の歌を歌って歓迎してくれます。 でも、強制収容のこと、家族との別れについて尋ねると、たちまち瞳が曇り、涙があふれます。
 原告番号8番の林却さんは、昭和15年、20歳になる直前に強制収容されました。結婚し、二人目の子どもを産んだばかりでした。嫌だと泣いてあらがっても許されず、4歳の長男と4か月の乳飲み子を残して、お召し列車に乗った日のことを語ってくれたとき、彼女は、暗い部屋で声を震わせ、しはらく黙って涙を流し続けました。
 原告番号11番の汪江河さんは、小学校で発病し、学校をやめて何年も家の中に隠れていましたが、15歳のある明け方、警察官から叩き起こされ、連行されてお召し列車に乗せられました。のちに面会に来てくれた父親は、あまりにも仰々しい予防着や消毒池、面会室のものものしさを嘆いて泣き、対する彼も気持ちが高ぶって何も言えずに泣いたと言います。
 本日、意見陳述した黄金涼さんは、見ての通り聡明で、教師になる夢を持った少女でした。しかし、発病したとたん、すべてを失いました。将来の夢も、家族も、愛した家も。初めてお会いして、補償請求の説明をしようとした私を、彼女は部屋に入れてくれませんでした。隔離され、社会から排除されている者、国に寄宿している者、という後ろめたさが、彼女を扉の蔭にとどめていました。
 私たちが初めて楽生院を訪れたのは、わずか1年前のことです。この1年の間、何度か訪ね、皆さんから隔離の被害の一端を聞き取りました。次回期日までには、全原告の陳述書を提出できる予定です。
 被害者としての自覚をもって隔離政策による被害を語ることにより、原告の皆さんに変化が現れました。今日、まささんは、自分にも人権があること、人間らしく生きたいと言ってもいいことを、初めて知ったと訴えました。これは、施設ごと医療も患者も隔離してしまったため、町なかにありながら、ごく近隣の人からもその存在を忘れ去られ、歴史の闇に葬られようとしている楽生院の入所者全員に共通した思いです。
 補償請求は、日本人として、日本の政策によって隔離収容された楽生院の原告にとって、当然の権利行使であるばかりでなく、人権の享有主体としての一歩を踏み出す大いなる営みでもあります。
 裁判所におかれましては、この原告たちの訴えに真摯に耳を傾け、日本が犯した罪の重さを受け止めて、早期に公正な判断をしていただきますよう、切に願います。
報告集会の後、顔を合わせた台湾楽生院の黄金涼さん(左)と鹿児島・星塚敬愛園の上野正子さん。上野正子さんは、ハンセン病国賠訴訟の最初の原告の一人。