梨木香歩『沼地のある森を抜けて』
最初は、ちょっとホラーっぽい不思議さが、面白いな、と思って読んでいたら、
だんだん難しくなってきて、まいってしまった。
一言でいうと、「個と全」の話?
印象として、『ぐるりのこと』の系譜にあたる作品のように思う。
父と母、つまり雄雌がいて生まれる人間であるはずの久美(やフリオ)。
ところが、普通の生殖活動とは異なる生まれ方をする種族だった??
「男」としての性を否定し、でも「女」になりたいわけでもない風野さん。
人間の性を考えてみたり、酵母や粘菌の繁殖を考えてみたり、作中人物たちがあちこちに意識を飛ばしながら考察していく、「生」というもの。
「個」を超越した、種族とか命とか自然とかそういうものの「生」?
ひとつひとつの「個」は滅びても、永遠につなごうとする「命」?
そのつなぎ方のひとつの形が、沼から何度も生ま出る人々?
合間に挟まる、「シマの話」も、どう読み解いていいのか……
正直、難しくてあまり理解できなかった。
ただ、漠然と思うのは、ずっと以前から、私自身が気になっていたことと多少重なっているのかもしれない、ということ。
動物であれ植物であれ、生物にとって「子孫を残す=自分の遺伝子を残す」ことが、
根本的な目的・本能だとしたら、なぜ私たちには余計な「意思」があるのだろうか。
たとえば、子供はいらない、と考える人々もいるけれど、
それはもはや、生物として間違っているのではないか?
なぜ、人間はそういう思考をできるようになってしまっているのか?
「私」という体を構成している「細胞」が、日々生まれ、死んでいくように、
自分で考えて行動しているように思っている「私」も、実は何か大きなものの一部分に過ぎないのではないだろうか。
じゃあやっぱり、何のために私たちは「思考」するのだろう……
ところで、この『沼地〜』に描かれている「ぬか床に縛られている女性たち」の姿は、
梨木作品にたびたびあらわれる「『家族』の閉鎖性・独自性」というテーマ。
一族の伝統から逃れられず、嫌だと思いながらぬか床をかき回し続けるのは、やはり「個と全」の対比なのだと思う。
そして、その「代々の女性達」の、「果てしないエネルギーの集積」と「呪縛」(p110)のくだりは、『からくりからくさ』の織り子たちに通ず。
久美は紀久に通ず。
そういう風に見ると、たしかに『沼地〜』は『からくり〜』の系譜にもあるのか。
(05.10.18 日記より)