荻原さんの作品で既読分は、『西の善き魔女』シリーズと「勾玉三部作」。
これらのイメージを持って読んだら、けっこう違っていた。
まず、一人称の語り口(妙に軽薄な感じもする調子に、実は最初面食らった)。
そして、異世界探訪譚であること。
主人公が見知らぬ世界へ突然放り出され、その世界の常識も知識も持ち合わせていない。
ただいま映画化で話題の「ナルニア国物語」などに代表されるスタイルだ。
よくあるパターンだけど、これで読者は主人公にシンクロしやすくなる。
失恋した少女は、気がつくとアラビアンナイトな世界にいた。
ここで面白いのが、「ふつうに人間の子」ではなく、魔神族(ジン)として特殊能力を発揮しまくるところだ。
「もといた世界」の「嫌いな自分」とは正反対。
「好きになれそうな自分」として、「こちらの世界」では存在している。
最初に「これはきっと夢だ」と思ったように、ある意味「理想的な」世界なのだ。
この展開は、なかなか胸躍るものがある。
主人公は「もといた世界」の名前も捨てて、新しく「ジャニ」という名前を手に入れ、夢に見た「冒険」を楽しむ。
でも、けっきょくは、たとえ異世界へ行こうとも魔神族になろうとも、「あたし」の本質は変わらないことに気づく。
そうして、本質は変わらないけれども、簡単にはくじけない心を得る。
いつの間にか、ほんの少しだけれど、成長していたみたい、と自分を受け入れられるようになる。
ところで、失恋した女の子が異世界へ行って少し成長して戻ってくる、といえば、氷室冴子の『シンデレラ迷宮』。
少女は、白雪姫、白鳥の湖、眠り姫、ジェーン・エアな世界(別々ではなく地続き)を旅する。
異世界のベースが、もともと「お話」であることは、『これは王国のかぎ』との共通点。
一人称で書かれているので、主人公に同調しやすいのも、同じ。
異世界で「冒険」をしているうちに、「元いた世界」での自分を思い出して、冷静に考えられるようになる。
あまり強くはないけれど、自分で一歩踏み出す勇気を見つける、そういう主人公に共感するのだ。
その昔、わたしは落ち込むことや悲しいことがあると、『シンデレラ迷宮』のお気に入りのシーンとラストシーンを拾い読みして、慰めて、明日の自分を立ち上がらせる力を分けてもらっていたものだった。
自分では内面世界へと閉じこもることもできなかったから、かわりにリネと一緒に「シンデレラ迷宮」へ行っていたのかもしれない。
と、懐かしい気分にちょっぴりひたったりして。
最近では、『これは王国のかぎ』を読むことで、弱った自分の心を少しでも元気づけている子たちがいるのかなあ、と思う。
(06.3.29 日記より)