志村有弘『神ともののけ』

 

志村さんは「ご存じのように、神として祀られるのは、実在した人間でなければならない」と言う。
その代表例として、安倍晴明や菅原道真を挙げている。
そして「八幡大菩薩として祀られる応神天皇」も「応神天皇の母である神功皇后」も「神功皇后と関わりのあった住吉の神も日吉の神」も、実在した人物で「なければならない」という。
なんという飛躍なんだろう。
というか、わたしはちっとも「ご存じ」ない、そんなこと。
「一部の神」が実在の人物だと「確認」されているからといって、「全ての神」が実在した人物で「なければならない」、というのは、ひどく強引なロジックだ。
(念のために言っておくが、わたしは応神天皇や神功皇后らの実在を否定も肯定もしない。個別ケースは、ここでは問題ではないので)

「神は、実在した人間でなければならない」と断言するだけの、論拠を示してくれるのかと思ったら、そうではなかった。
本書は、日本各地で信仰されてきた神や霊の単なる紹介本だった。
なんともテーマが不明瞭というか、へんな本である。

志村さんは、「実在」という言葉を、どういう意味で使っているのだろう。
「ある1人の人物」に絞らず、「モデルがいた」という意味なら、まだわかる。
多くの神には、モデル(氏族とか)が反映されているだろうから。
しかし、日本全国の神社仏閣に祀られているものに、すべて具体的な(特定の)実在したモデルがいたか、というと甚だ疑問である。
仏教についても触れられているが、たとえば阿弥陀如来や薬師如来も、実在した人物なのか?

これが、「怨霊は実在した人物だ」というなら、すっきりする。
怨霊というのは、「怨みを抱いてたたりをする死霊または生霊」(広辞苑より)だからだ。
「死霊または生霊」ということは、少なくとも一度はこの世に生を受けたもの。すなわち、「実在した」ということになる。
不幸な死に方をした人を慰め、祟らないよう鎮めるために、怨霊は祀られる。
だから、そこに祀られているのは「かつて実在した人物」ということになる。

(06.04.27 日記より)

 

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