梨木香歩『春になったら苺を摘みに』
かつて、イギリスで下宿していたウェスト夫人の家。
「理解はできないが、受け入れる」ウェスト夫人の元、さまざまな人が集まる。
そして、さまざまな騒動が巻き起こる。
「k」は、巻き込まれながら、少しずつ、少しずつ何かを学び取っていた。
梨木香歩、留学時代の思い出の記。
自分が、いかに平凡な人間かを思い知らされる。
いや、平凡なのではなく、怠惰だ。
具体的行動が伴わない、というのもあるけれど、それ以前に、精神が怠惰。
精神的に未熟で、精神的に不感症で、精神的に荒廃していく……
感受性が、もっとオープンに、敏感にならないと、
たとえどんな経験をしてきても、
薄っぺらい、うわべしか残ってないんじゃないだろうか。
(03.04.15 日記より)
『村田エフェンディ滞土録』に影響されて、また読んでみた。
もしかして、梨木さんって完璧主義者なんだろうか。
いや、潔癖症といったほうが近いかも。
英国での暮らし、ウェスト夫人のところで、多種多様な人との交わり。
文中に「日本人だから」「英国人だから」「アメリカって」
といった表現がよく登場する。
梨木さんは、自分が日本人であることを強く意識している。
でも実は、○○人なのはどうでもいいことなのでは?
おそらく、梨木さんも、どんな人であれ受け入れるウェスト夫人に、
その理想を見いだしていたのだろう。
「出身国」を気にすることで、忘れようとしていた、そういう関係か?
やや鼻につくくらいの平和主義、理想論も。
けれど、梨木さんにとって、それはウェスト夫人という具現を得ていたわけで、
その悟りにも似た考えに身を寄せようとするのは、わからないでもない。
おそらく、自分をその柔らかな感覚に近づけようとしていたのでは。
理想論でも、利己的であっても、
これだけのことを必死に感じ取って、考えて、生きている人がいる。
ならば、わたしは? と思う。
惰性の中で、一体何を考え、得ることができているというのか。
この思いは、前回読んだときにも感じたこと。
間違いなく『村田エフェンディ〜』はこの本の流れを汲んでいる。
下宿、英国人の女主人、ということだけでなく、
人がどこの出身であろうと、どこに所属していようとも、
その人であろうと生き、またそのように受け止め交じり合う人びとの物語だから。
きっと、梨木さんの「青春」、ウェスト夫人なのだろうこと。
(04.05.16 日記より)