明治維新を叩きあげた剣
薬丸自顕流

薬丸自顕流 千年の歴史
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薬丸自顕流の基本はこの「続け打ち」である。写真は薬丸兼秀第十四代宗家。
【当流の始源】
薬丸流の始祖は、大伴氏の末裔伴兼行である。安和二年(西暦969年)に総追補吏として薩摩神食村(伊敷町)に着任した。これが当流の始源である。曾孫兼貞は大隅国肝属郡の弁済使となる。子兼俊(かねとし)が肝付氏を名乗り高山に居住。その孫兼平が薬丸を名乗り肝付家の家老として家伝の野太刀流を継承していった。
薬丸家はこのように大変古い家系であるが、肝付家と共に島津家の支配下に入った時点の当主壱岐守兼成を初代とし、現在薬丸兼秀が第十四代となる。
<薬丸家略系図>

【島津氏との戦い】
鎌倉時代、異国警護番役として源頼朝の庶子島津忠久が薩摩に下向した。これが薩摩島津家の初代である。島津氏入薩より500年の間、激しい戦いが肝付氏との間で続いた。南北朝時代、後醍醐天皇の勅を奉じて懐良親王をお援け申し上げたのが肝付兼重。当流が勤王の剣として誠を尽くした始めである。
長い戦いの末永禄七年(西暦1564年)遂に肝付軍は島津の軍門に降った。名将薬丸湖雲とその子で大崎城主弾正も戦死。弾正の子薬丸壱岐守は肝付氏とともに二十五石の微禄で島津氏の家臣となった。朝鮮征伐、そして関ヶ原での敵中突破など殊勲を重ねた武勇の士であった。この壱岐守に若き時分の戦いに介添えを受けた島津の重臣東郷重位が壱岐守の孫兼陳を門弟と為したのが当流と東郷流(正式名称は示現流)の出会いである。

【ふたつのジゲン流】
時代物、歴史物の著作物などで「薬丸流」は東郷示現流の分派であるとの記述を散見するが、これが間違いであることはそれぞれの流儀の歴史を見れば明快に理解せらるることである。兼陳が東郷示現流の門弟となったのは島津と肝付の戦いの帰趨によるものでありもとより家伝の野太刀流の系譜にあった兼陳が示現流の達人となったのは不思議ではない。中興の祖といわれる薬丸兼武は安永四年に生まれた。野太刀流に達し、「剣聖」と称せられた。東郷示現流と決別し、「薬丸家家伝自顕流」を立ち上げたが藩に忌避され屋久島に遠島となりそこで没したのである。宗家が屋久島にて兼武の墓前にて奉納演武を行うことにその深い意義を感じるのである。示現流にその精緻な型と意地有り、薬丸流にまた簡潔にして深く錬られた技と意地あり。二つながらジゲン流の鍛錬にに薩摩武士の気風を育んできたことはわれらの誇りとするところである。

【幕末から明治、輝かしき時】
薬丸兼義は兼武の長男。文化二年に生まれ通称壱之助。弟新蔵とともに剣聖と唱われた達人であった。島津斉興の時代、兼義のあまりの高名に藩は遂に剣術師家として復権せしめた。このときの軍制改革の責任者は調所笑左衛門廣郷である。調所の建議によったものであることは容易に推察できる。調所が為し得た経済改革、そして薬丸自顕流の復権。いま廣郷の直系の子孫である調所一郎氏が当流の顧問を受けてくださっていることに歴史の縁を感じるのである。
さて、この兼義の門弟にいよいよ幕末に向けて活躍する英傑が登場してくる。海江田信義、奈良原喜左ヱ衛門、西郷従道、伊地知正治、篠原国幹、桐野利秋、辺見十郎太、東郷平八郎・・・。
幕府崩壊の端緒となった「桜田門外の義挙」で井伊大老に「天誅」を下した有村治左ヱ衛門もまた兼義の門弟であった。
また同門相撃つ悲劇もあった。「寺田屋」事件である。精忠組の志士たちと島津久光が派遣した鎮撫使たちのほとんどが兼義の門弟であった。

【幕軍15000、薩軍3000。鬼神の強さで明治を叩きあげた】
戊辰役は鳥羽伏見の戦を発端として始まった。東海道を攻め上り、西郷隆盛と勝海舟の会談による江戸城の無血開城、さらに上野彰義隊との戦い、会津戦争越後口の戦いと続き遂に明治維新がなったのである。その鳥羽口の戦いでは桐野利秋(中村半次郎)らが率いる薩摩兵250の奮戦は旧幕兵が「その強さは口では言えない。手が付けられなかった」と言うほど凄まじいものであった。鳥羽伏見に出陣した薩摩兵は西郷隆盛を総大将、伊地知正治を参謀として約3000、対する幕府軍は会津桑名の藩兵を加え装備に優る約15000の大兵力であった。その幕府軍を撃ち破った原動力は常に前線を切り開いた薬丸流門人たちの奮戦であった。戊辰の役最後の戦いの場となった山形県あつみ町。いまこの地と大隅町岩川が友好盟約を結んでいる背景にも当流の剣士たちの奮戦がある。伊勢氏の一党による「私領五番隊」である。その名を冠した焼酎も岩川を由縁として産まれている。

【日清・日露の戦いそして今次大戦と、それから】
明治10年のいわゆる「十年のいっさ」つまり西南戦争によって当流の門弟の多くが倒れた。その無念の時を越えてやがて日露の戦いに臨んだ鹿児島出身の将兵にも当流の門弟がいた。国の存亡をかけた日本海海戦で当時世界最強をうたわれたバルチック艦隊を撃ち破った連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥も若き日より薬丸流を学び、その続け打ちの稽古は終生続いたという。大東亜戦争で当流の門人達も多く戦場に倒れた。それでも戦中戦後を通して先達の努力により鹿児島の各所で受け継がれてきた当流はいま第十四代薬丸康夫(兼秀)氏を宗家本部とした活動によって若い世代に引き継がれつつある。


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