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薬丸自顕流の先人たち |
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中村半次郎 天保9年〜明治10年 (1838〜1877)
幕末の薩摩から大西郷とともに明治へと駆け抜けた英傑。「人斬り半次郎」などと称する向きもあるが、実態は情の深い思いやりのある人物だった。会津城受け取りに見せた見事さは人士の心を打ったと記録される。薬丸自顕流の腕は凄まじい程で、特に「抜き」の技に秀でたという。剛胆で無欲、明朗、繊細でお洒落。江戸の連中が「芋ざむらい」と蔑称した薩摩武士が、260年将軍足下で飽食を続けた旗本八万騎を撃ち破ったその先頭で戦ったのが中村半次郎。桐野利明だった。
大西郷下野ののち、私学校で開墾などに汗を流していたが、西郷への刺客など政府の行動に対して突発した若者たちに命を預けた大西郷とともに戦い抜き、明治十年9月24日城山で戦死。愛刀は薩摩波平二尺八寸と伝える。 |
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有村次左衛門 天保9年〜万延元年/安政七年 (1838〜1860)
安政七年桃の節句の日、桜田門外で大老井伊直弼を討ち取った薩摩藩士。次兄は雄助。井伊大老を狙い果たさずに自決させられる。その二年後次左衛門が水戸藩士たちと桜田門外に井伊を襲いこれを討ったのである。次左衛門が執った刀は関孫六二尺四寸。討ち果たしたこの日に自決した。
「岩かねも砕かざらめやもののふが国のためにと思ひ切る太刀」
辞世の詩には薬丸流の真髄がみごとに描かれている。次左衛門は、奈良原喜左衛門・大山綱良・篠原国幹・東郷平八郎などとともに、薬丸兼義を師として薬丸自顕流を学んだのだった。参議院議員として「しっかりとした国家観」を訴える有村治子氏は石川県生まれ。有村雄助、次左衛門は四代前のご先祖にあたる。 |
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