4月25日
牛窓=岡山県瀬戸内市ー大阪
 ゆかりの地探訪、最終目は朝から雨。牡蠣の養殖棚が海上に浮かぶ内海を通り貸しきりバスで牛窓へ。牛窓は風光明媚な港町で、古くから潮待ち・風待ちの港町として栄えてきた。今は「日本のエーゲ海」と称してリゾート地としても「売り出し」中。雨がやみ、元警察署の建物を使った「海遊文化館」では瀬戸内市の東原和郎・副市長(元牛窓町長)が待っていた。「通信使のさきがけとなった松雲大師の故郷、韓国・蜜陽市と姉妹都市です。市民レベルで善隣友好の和を築きましょう」とあいさつ。今回「正使」の役割をになう宣さんは「私たち21世紀の朝鮮通信使は交流を通じて両国の友好をさらに前進させます」と応えた。市教委の若松挙史さんがビデオを見ながら解説。ここ牛窓は朝鮮通信使が訪れる時代よりも昔から朝鮮とのかかわりがあり、古墳からは朝鮮で焼かれた焼き物が出土しているという。朝鮮通信使の資料が展示されており、徳川家康と交渉した松雲大師(朝鮮側の使者で、徳川家康と京都で会見し再侵略の意思が無いことを確かめた)の資料が目をひいた。韓さんが記念写真用の韓服を着込んで現れる。(写真上)見事に変身し、本物顔負けの堂々たる貫禄だ。宣さんも着て、「正使」「副使」が揃い、なかなかのもの。思わぬ効果に苦笑い。
 港町の風情を残す「しおまち唐琴通り」から本連寺に向かう。正使、副使が泊まった宿所で15世紀の建物。ここからは牛窓の町と港、海を一望できる。街の一角に「御茶屋井戸」と呼ばれる井戸が残っている。大きな川がない牛窓は水争いが起きるほどで、夏の水確保が重要な課題だった。このため通信使専用の井戸を作った。備え付けのバケツでくみ上げた水はいまでも透き通っていた。元銀行の建物を使った「牛窓文化館」には小学生が作った朝鮮通信使の手製のパンフレットがあり、絵入りでわかりやすく書かれていた。(写真中)この地には朝鮮通信使の影響を受けた「唐子おどり」が伝承されている。 
 バスで大阪に移動。新緑の大阪城を歩いて一周した。今日でソウルから大阪までのコースを歩き終えた4人と、新たに大阪から東京までのコースに参加する3人の歓送迎会が開かれた。(写真左)日本ウオーキング協会大阪本部の池田会長、民団大阪本部の呉事務局長も出席。近隣の仲間のウオーカーも多数出席した。
 大阪まで参加したのは、山浦正昭さん(63=東京都)、阿部覚さん(63=埼玉・東松山市)、山下善孝さん(59=岐阜市)、岡安サダ子さん(65=横浜市)。カントリーウオーカーとして地図を見ながら山野を自由に歩く山浦さんは、毎日のコースの絵地図を作成した。阿部さんは元サラリーマンとして韓国にも駐在し、韓国語が話せるウオーク暦15年のベテランウオーカー。山下さんは会社を早期退職、ウオーク暦5年でパソコンを駆使し、今回も韓国各地から自分のブログに書き込みを行った。岡安さんは2年前の韓国一周ウオークに応援隊として参加、日常は1日単位のウオーク大会に参加し、着物の仕立てを行っている。今回のウオークについて、4人に感想を聞いて見た。「韓国スタッフのサポートが素晴らしく、中身の濃いウオークだった」「韓国の人と共に歩き、通信使のことも勉強になった。また機会があれば参加したい」「日本人が忘れている、大切なものに気づかされた思いがする、歩いてよかった」「韓国を歩いて、むしろ日本のことを考えた。歩く、ということは自分の国をもう一度見つめなおすことにつながる。韓国は、いいものは残すという視点に立って欲しい」などの感想が寄せられた。さて課題満席!!、??の中で、明日から国内編が始まる。

対潮楼から見た鞆の浦(上)、朝鮮通信使も
飲んだ保命酒 (左)を味わう

4月24日
鞆の浦ー岡山県瀬戸内市
 ゆかりの地探訪、二日目。鞆の浦を見下ろす高台にある民俗資料館へ。朝鮮通信使が飲んだ、この地の銘酒・保命酒には、好んで飲んだ一行が記した印象が焼きこまれ、保存されている。また民衆が通信使の一行と話す際に使われた、簡単な「日朝会話辞典」(写真左)も展示されていた。町人の関心の高さと、必要に応じざるをえなかった悲哀を感じ取ることができる。
  「日東第一形勝」の扁額のある、「福善寺・対潮楼」に向かうと、海は静かで、水面に太陽の光が反射している。ここから見る景色は通信使が感嘆した風景とはだいぶ違っている。高い建物が出来、景観はだいぶ変ってしまった。しかし街中の風景はタイムスリップしたように、レトロな雰囲気に包まれている。鞆の浦には27もの寺があり、一行は寺や町屋に分宿した。ここ鞆の浦には歴史的にも特筆すべきことがある。昭和15年、当時の政府は朝鮮通信使については、出来るだけ長い間両国の友好関係があったことを隠そうとし、関連の事物を焼いたり隠すように圧力をかけていた、しかしここ鞆の浦だけは、この圧力に屈せず史跡に指定した。日朝有友好の象徴として、何としても残したい、いう強い意思がたくさんの人々の共感を呼んだためかもしれない。

4月23日
呉ー下蒲刈ー鞆の浦
 今日はまず、日本を歩く韓国のメンバーを紹介する。
現在参加しているのは、宣相圭さん(59)、崔悳基さん(54)、韓楠珠さん(52)の男性3人で、後半の吉原市(静岡県)から3人が加わる。
 宣さん(写真中)は今回の主催団体、韓国体育振興会の会長。10年ほど前にソウルから釜山まで初めて歩いた時に思い立ち、いつかは実行しようと考えていた。韓国内を歩き終え、日本での朝鮮通信使の道に想いをはせる。崔さん(右)は 元食品メーカーの営業マンだったが、昨年リタイア。ウオーキングは3年前から取り組んでいる。朝鮮通信使のことは詳しく勉強していて、書いたメモを元に宿ではノートに克明に記録している。体育振興会の会員で「日本の文化を知り、両国の交流がどのようにして行われるのか、を知りたい」と参加した。韓さん(左)の本職は文化事業のプロデューサー。今回韓国内でのコースリーダー、林さんとは、YMCAで同じ活動をしていた。やはり韓国体育振興会のメンバーで、「日本の歴史、ヒューマニズム」に興味を持ち、参加した。記録集の編集に役立てようとさまざまな場面を写真に撮っている。
 さてゆかりの地探訪に8時前、宿のバスで出発。植栽されたツツジのピンク色が目に染み込むように美しい。事務局の学術担当を担う井上さんがバスの中で、今日訪れる下蒲刈について解説する。下蒲刈町は昔から瀬戸内海の海上交通の要衝として繁栄して来た。12回のうち、11回訪れた(最後の12回は江戸まで行かず対馬までだった)港で、行程の中で一番ご馳走が出た場所として知られている。第7回の時、江戸城で将軍が接待役の対馬藩主(宋家)に各地での接待の様子を尋ねた。「安芸蒲刈御馳走一番」と記録に残っているほどだ。1時間で呉市役所下蒲刈支所に到着。郷土史研究家・柴村敬次郎さんの案内で、まず資料館「御馳走一番館」で、畳に車座になり詳しく説明を聞く。当時通信使一行500人に加え、接待役として対馬藩から1、000人が帯同、接待する広島藩からは700人、近隣から600人が集められた。女性は隣村に移動させられ、「島が沈むほど」だった、といわれる。どんな接待をすればいいのか、黒田藩(福岡)などに偵察隊が出て調べた。館内には、釜山から大阪港まで使用した船が10分の1の模型として再現されている。圧巻は振舞われた料理の再現だ。儀式用の膳は「七五三の膳」が用意された。これには箸をつける程度で、実際に食べるのは「三汁十五菜」膳で、これには偵察で知りえた正使の好みが反映されていた。他にも行列の再現模型など興味深い展示物が多い。宣さんも盛んにデジカメで撮影する。初期に福島正則が作り「福島雁木」として残る船着場の石組みや宿所跡を見学。
 11時から地元の「下蒲刈運動推進協議会」のメンバー8人と浜辺ウオークを行った。下蒲刈島は周囲およそ15キロ。瀬戸内海の島々が見え、晴れていれば四国の最高峰・石槌山も見えるという。松が植栽された海岸には心地よい風が吹き気持ちがいい。朝鮮通信使記念公園にはソウルから江戸までの行程を模した「ミニミニコース」が作られ、各地の地名表があって、足に自信の無い?韓さんも無事、笑顔で江戸にゴールした。5キロコースを歩き、地元のウオーカーには、ハングルの名前が書かれた参加賞が渡された。弁当の昼食後、貸切バスで福山市鞆の浦の宿に向かった。夕食後には民団福山支部の宣良夫団長ら4人が激励に来てくれた。体育振興会の宣会長は同じ「宣さん」に会い感激、「本願(出身地」)」はどこですか、と訪ねるなど笑顔で話し込んだ。地元福山市から参加している康香春さんも地元の応援に喜んでいた。
左は福島雁木、下は正使(右)と副使


 

4月22日
対馬ー博多ー呉
 朝から雨。7時40分発の高速船に乗るため、雨の勢いが収まったのを見計らって、荷物を持って港へ向かう。乗船名簿を書いて、博多港行きの船を待つ。朝日新聞を買った「カメさん」こと阿部寛さんが、「金井さん、出ていますよ」と長崎版を見せてくれる。昨夕、朝日新聞に「対馬ゆかりの地ウオーク」と題して送信した記事・写真が掲載されていた。
  雨に濡れながら高速船に乗船。雨で視界があまりきかず、波もあるがうねりは一昨日ほどはない。シートベルト着用のサインが出ている。1時間で壱岐の港着。ここからはスピードを上げる。速度は約時速80キロで最近はクジラが多いので衝突を避けるため、「見かけたときには減速します」と船員が話す。 
  10時前に博多港着。地元九州のウオーカーの女性が出迎えてくれた。ここで吉本さんと大津さんが一時離脱、バスから手を振って再会を約した。(写真下)貸切バスに乗り込んで出発。宣さんはコピーしてきた朝鮮通信使の資料に目を通している。途中の関門海峡を見下ろすサービスエリアで昼食。高速道路から見た日本の風景は、いかにも整然としていて、歩いてきた、土の匂いがする韓国の風景とは異なる。また対馬での夕食の席で、テーブルに並べられた料理をみた韓さんは「イッツ ビューティフル」。韓国の白だけの器に盛られた野菜の和え物などおかずは、キムチの赤と野菜の緑が基本だが、日本の料理は器からしてカラフルで、料理の色合いも多彩だ。このような日韓を比べて「見る」という視点は、自分にない「比較の視点」だった。
 広島市内を通過するので平和公園に立ち寄る。韓さんは原爆で犠牲になった韓国人の慰霊塔(写真上)に手を合わせ、公園中央の慰霊碑の前で「一度来たかったんだ。韓国人の犠牲者や日本人の犠牲者の気持ちを思うといたたまれなくなる」と涙ながらに話す。(写真中)宣さんと崔さんの表情も厳しい。バスに乗った宣さんは「私たち、21世紀の朝鮮通信使は平和を愛する新しい道を開拓するためにも、ここに立ち寄ったことには大きな意味がります」と話した。広島は当時軍需産業の中心地で、朝鮮から徴用された人、約20万人(人口は100万人)が住み、この内2万人が犠牲になった、と井上さんが説明する。
 午後4時半に国民宿舎着。韓国の3人はそれぞれ日本人との同室。韓さんは太田さんと私の組み合わせになった。夕食には地元(広島・福山)の康さんが、弟さんに頼んで送ってもらった、さまざまなキムチがテーブルに並んだ。

4月21日
対馬交流日
 日本での最初の韓国語講座じは「チャル モッコス ミダ(いただきます)」。
 宿での朝食は、海苔・味噌汁・サバの塩焼き・豆腐など、典型的な日本の朝食。
韓さんは浴衣姿で、生卵をご飯にかけてうまく食べる。昼食は昨夕の食堂で「六兵エ定食」。サツマイモを原料にしたうどんとまぜご飯、お刺身がついている。これだけでは足りない韓さんは、おかわりも出来ず困った表情。「困っちゃうな?」。韓国でも一般的に食べられている「タクアン」を注文。本当に出てくるかな?と半信半疑だったが、ちゃんと出てきた。
 午後、対馬に残る「朝鮮通信使」ゆかりの史跡を尋ねる。市役所は昔の役所があった場所。次に訪れた万松院は対馬藩・宗家の菩提所で、拝観料金の表示にもハングル文字が表示されていた。最後の12回目の朝鮮通信使は江戸まで行かず。対馬までだった。諸般の事情のためだが、この時に建てられた幕府の使者の宿所跡は、何も残っておらず、「ここにあった」、という稗が建てられていた。明治時代には宗家の伯爵と李・朝鮮王朝の娘との婚儀があり、その婚礼の記念碑では宣さん、韓さん、崔さんの3人が感慨深かそうに碑文を読んでいた。(写真中)また厳原の市街地を見下ろす清水山城跡では、学術担当の井上さんが、「慶長年間、朝鮮に攻め入った豊臣軍はここに狼煙台を設け、釜山からの情報を壱岐を経て、前線基地の名護屋城まで連絡しました」と解説した。(写真下)
石垣が続く武家屋敷地域にある半井桃水(樋口一葉師匠)記念館では、練習していたママさんコーラスに韓さんが飛び入り。 「アイアム クリスチャン」と一緒に合唱し、楽しんでいた。朝鮮通信使への理解と政治的活動を行った対馬藩の官吏。雨森芳洲のお墓は小高い竹林の頂きにあった。出発前、特別講演をしてくれた、鄭永鎬教授が來日、朝鮮通信使の役割をきちんと認識して日韓の交流・友情をますます、ゆるぎないものにするため、皆さんもがんばってください」と励まされた。

4月20日
釜山ー対馬
 韓国からの旅立ち、だった。
かつての朝鮮通信使の人々は、初めて訪れる異国の地にどんな想いを寄せていたのだろうか。
船旅の安全が保証されない時代、恐れ、おののき、武者ぶるいなど、さまざまな葛藤があっただろう。
今、釜山から博多、対馬には高速船が運航し、人々の交流は高まるばかりだ。
 朝のミーティングで宣さんは「これからは日本の皆さんが私を案内してください。迷子のいならないように」とあいさつ。体育振興会の4人のスタッフの見送りを受けて乗船。(写真中)船での出国は航空機と違い、荷物は全て手荷物扱いのため、スーツケースも船まで自分で運ぶ。乗船待合所で釜山から東京まで新たに加わる、崔チェドキさんが紹介される。「日本の皆さんと歩けることを楽しみにしています」と決意を語る。出港して1時間ほどで、うねりが出てくる。時折大きな揺れが来ると「キャー!」というかん高い声も伝ってくるほどだ。 カモメが飛び、厳しい断崖の対馬が見えてきたが、風はますます強くなり、うねりのためローリングが激しくなる。さすが玄界灘だ。午後3時半入港。対馬市役所では職員総出で、ドラを鳴り響かせ迎えてくれた。(写真中)夕食は近くの郷土料理店で、久しぶりの日本食を味わった。韓国の3人のメンバーも美味しそうに食べている。ブリのお刺身が美味しかった。久しぶりの日本酒がノドにしみわたった。