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朝鮮通信使 QアンドA |
| <Q4> 被害を受けた朝鮮が通信使を再開したのはどのようなな理由からですか。 <A4> 文禄慶長の役(壬辰丁酉倭乱)という二度の侵略を受けた朝鮮では、日本が再び侵略してくるのではないかという恐れがあり、明軍も駐屯したままでした。戦争後は、日本に対する敵対心と被害意識から日本との講和を望みませんでした。しかし人々の心を安定させて、日本に連れて行かれた人々を帰国させるという大きな問題がありました。また、国境を接する北方の女真族から国を守らなければならないという状況もありました。 こうして、日本が本当に講和を望んでいるのかどうかを確かめる目的で、「探賊使」の派遣が決められました。使節にはかつて義兵の総司令官であった松雲大師が使者として派遣され、京都で家康と会見し、日本が再侵略の意志がないことを確かめ、連行された1390人の人々を故郷に連れて帰りました。これ以降、何回にもわたって連れ帰りましたが、その数はそれほど多くはなく(判明している数は3700人ほど)、結果的には1割程度の人しか戻れなかったように思われます。 |
| <Q5>日本に連行された人々は、どのような人だったのですか。 <A5>大きく分けて次の4通りがあります。 @日本国内の農民が秀吉の侵略戦争に無理やりかり出され、その結果、多くの農民が死にました。(注1)そのため、国内の農民の不足を補うため連れ帰り、農業に従事させました。 A儒学者や焼き物の技術者を連行しました。そして九州各地や山口で焼き物を生産させました。有田焼を始めた李参平や薩摩焼きの沈寿官などが有名です。これによって朝鮮の焼き物産業は壊滅状態に陥りました。この他、多くの活字職人も20万本の金属活字(注2)と共に日本に連れてこられ、儒学や医学薬学等の書物の出版に関わりました。。 B奴隷として連れてこられ、ポルトガルやスペインの奴隷商人の手で東南アジアに売られていきました。今日知られる例として、イタリア人宣教師が長崎で少年を買い、イタリアに連れ帰り、アントニオ・コレアと名を付けました。ルーベンスの作品「朝鮮服を着た男」(注3)のモデルはアントニオ・コレアといわれています。今日ではコレアの子孫がイタリアに200余名います。 C秀吉は手紙(朱印状)で、若い女性を連れてくるよう書いています。貴族の娘「おたあジュリア」(注4)はキリシタン大名の小西行長に捕らえられキリシタンとなり、行長の死後は家康の献上されました。キリスト教禁教令が出されても、改宗しなかったために、神津島に流され、島には「おたあ」の墓があり、島の人々から慕われています。 <Q6> 朝鮮通信使には、どのような人々が選ばれたのですか。 <A6> 徳川幕府は新しく将軍が即位すると、対馬藩の宗氏を通じて李王朝に報告し、朝鮮通信使の派遣を要請します。これを受けて国王は通信使として三使(正使・副使・従事官)(注5)を任命し、随行員(儒学・医学・絵画・歴史・武芸・音楽・通訳など)には、それぞれの分野で優秀な専門家を選びました。 また、日本での文化交流に当たる製述官として、儒学や漢詩に優れた文人が任命されました。当時の日本の学者・文人達も漢詩の素養があり、筆談しながら互いに漢詩を詠んで唱和をすることが行われました。そのため通信使一行の宿舎には多くの人々が訪れて、「満足に食事や睡眠がとれなかった」ということが、朝鮮側の記録に書かれています。。この他に船乗りを合わせると一行の人数は少ない時で300名、通常は450〜500名にもなり、6隻の船に分乗して来日しました。使節は王の国書と贈り物を持参し、漢陽から江戸の間を、およそ6ヶ月から1年かけて往復しました。 <Q7> 日本は朝鮮に通信使を送ったのですか。 <A7> 通信使は送りませんでした。というより朝鮮側から拒否されました。その理由は、かって室町時代の日本使節が、釜山から漢陽まで行く場合「倭人上京路」と呼ばれた3つのコースのいずれかを通りました。使節は各地で歓迎のもてなしを受けながら漢陽まで行きました。この道を秀吉が侵略に利用したです。こうした経緯から、日本からの使節はおう吐へ対馬藩が派遣する使者でさえ、釜山の東莱府止まりでした。 <Q8> 使節はどのようなコースを通って江戸にきたのですか。 <A8> 通信使の一行は都城で国王に拝謁し、儀式をすませた後、出発しました。漢陽からおよそ500kmの道のりを、1ヶ月ほどかけて釜山に着きました。 釜山から対馬・壱岐・相島を経て下関に上陸し、瀬戸内海の上関・鎌刈・鞆・牛窓・室津・兵庫などの港を寄港し、大坂まで船で行きました。ここで幕府が用意した豪華な御楼船に乗りかえ、船ごとに70人ずつの曳き手が両岸から曳いて進みました。淀で下船してからは陸路を京都・大津へと進み、通信使だけが使用することができた「朝鮮人街道」を通って、名古屋・浜松・静岡・箱根等を経て江戸に着きました。一行は各地で大いに歓待を受けました。 <Q9> 朝鮮側は使節の派遣のために、どれくらいの費用がかかりましたか。 <A9> 使節団の乗る6隻の船はすべて新しく造られました。この他に将軍家や幕府の役人たちへの贈り物をはじめ、旅行中に宿泊する際に各藩へ贈り物を用意しました。 6隻のうち3隻はそうした品々を満載していました。 また、李朝と幕府を仲立ちする対馬藩の使節への優遇や釜山にある日本の外交、貿易の拠点である倭館の維持費等で年間27万両(今日、約270億円)ほどかかりました。 |
| <Q10> 日本側はどのような費用・負担がかかりましたか。 <A10> 朝鮮通信使に対する待遇は徳川幕府の威信をかけて行われましたから、特別の歓待でもって迎えられました。そのため幕府や諸藩が要した費用はおよそ100万両(1,000億円)といわれ、一回の対応の費用は、幕府の1年分の収入を越えたといわれています。 また、通信使が通過する領地の大名は、通信使の受け入れのために最高の心づくしでもてなすよう幕府からいわれていました。小大名は幕府から援助がありましたが、10万石以上の大名は全て自費でまかないました。この他、各藩は通信使の宿泊する接待費や使節の荷物を運搬するために東海道だけで、のべ人夫は23万人、馬4万頭以上が動員されたといわれています。 <Q11>対馬藩はどのような役割をしましたか。 <A11>対馬藩の大名は宗氏でした。宗氏は鎌倉時代の初期から対馬を支配した豪族です。14世紀頃から倭寇が朝鮮や中国の沿岸を襲い15世紀に朝鮮国王世宗は、宗氏が倭寇を取り締まる代わりに、対馬藩に日本と朝鮮の貿易の窓口として認め、米などを援助するというものでした。対馬には山が多く、米はほとんど作れませんでしたから、対馬藩は朝鮮との貿易を行うことによって経済を成り立たせていました。木綿や生糸、朝鮮人参を輸入し、銀や銅を輸出していました。 宗氏は釜山にある倭館に家臣を派遣して貿易に従事させました。倭館はおよそ3万平方メートルの広さで、そこには常時500〜1000人程度の対馬藩の役人たちが住んでいました。朝鮮通信使が来る際には、その接待役の中心として、江戸まで案内役を務めています。 <Q12> 各藩では使節を迎えるための接待はどのように行われたのですか。 <A12> 福岡藩の例をみますと、所領52万石でその面目をかけて膨大な費用をかけて迎えています。博多の沖合12kmにある相島に使節の迎賓館として、建物24棟を新築しました。また、船500艘と船頭3,600人が動員されています。そのうえ風待ちのために停泊したり、海が荒れている時などは滞在が長期化し、長い時には18日も滞在したことがあります。接待のための食事だけでもかなりの費用がかかりました。 <Q13> 使節に出された食事はどのようなものでしたか。 <A13>各藩は、もてなし方において他藩に負けまいと、贅を尽くしたごちそうを用意しました。どのようなものであったかは、当時の饗応料理の研究もされています。2006年度の朝鮮通信使学会(本部は釜山市)が新宿で行われ、高正晴子氏の発表がありました。 以下は高正さんの発表からの引用です。 『通航一覧』の慶長度の記録によれば、遠来の賓客をもてなすために前もって好物を調べ、もてなしていた。これによると、『通航一覧』延享度(1748年)では、 牛、猪、鹿、家猪、鶏、雉、鴨、玉子、鯛、鱈、かど、さはら、蛸、伊勢海老、蟹、蛤、、、(略) また、嗜好品としては、 西瓜、柿、梨子、蜜柑、久年母、柚、葡萄、瓜、右之水菓子之類、別に好み申候、にうめん、そば切り、饅頭、餅類、やうかん、あるへい、こへいとう、龍眼、りちい、氷砂糖、白砂糖、かすていら、砂糖漬、蜜漬、右之分好み申候、其外菓子大概給申候、 このように、通信使を迎えるために朝鮮人の好物について周知し、好物の品々を確保して提供する努力が各地で行われた。 この他、大坂から品川にいたる各地では日本料理でもてなされました。食事の接待は使節の身分によって料理の種類と品数が異なっていました。 <Q14> 下関から大坂まで船はどこに寄港したのですか。 <A14> 朝鮮通信使は11回瀬戸内海を通過しています。下関から大坂まで停泊した港の数はおよそ40カ所ほど記録に残っていますが、その多くは行程の都合や天候、風待ちのため臨時に停泊したところです。通常の場合を見ますと、往路で9回以上寄港した港は上関(山口)、下蒲刈(広島)、鞆の浦(広島)、牛窓(岡山)、室津(兵庫)、兵庫(今日の神戸港)で、いずれも風光明媚な場所が選ばれました。使節はこれらの地をとても気に入っていたようで、彼らの残した書や詩の中で、そのすばらしさが随所にあらわれています。なお、下蒲刈、鞆の浦、牛窓については、このあとの説明「バスツアー」のところで触れたいと思います。 <A15> 朝鮮人街道(注6)とは、古くは織田信長が開いた下(浜)街道がもとになっています。家康が関ヶ原の戦いに勝利し、京都にのぼる際に使われました。その後、朝鮮通信使が江戸への往来に利用したため、この名がつけられました。この街道は別名「京街道」「浜街道」ともいわれます。 中山道から野洲市行畑で分かれ近江八幡・安土・彦根を経由して彦根市鳥居本で再び中山道に合流する間の約41kmをさして言います。江戸時代この街道は将軍のほかは通信使しか使用できませんでした。 |
| <Q16>瀬戸内海の各地の比べて、東海道に朝鮮通信使に関する品々が少ないのはなぜですか。 <A16>一行が瀬戸内各地で宿泊する所は、風光明媚な場所で過ごしました。ゆったりとした気分があったと思われます。また、船旅は風待ちのために数日間滞在することもあり、時間的にもゆとりがありました。その間、訪問者と応接する時間も多くとれたようです。 <Q17>東海道の中では清見寺(注7)に多くの扁額・懸板や絵画などの資料が伝わっているのはどうしてですか。 <A17>清見寺は寺伝によると奈良時代の創建と伝えられ、中世では足利尊氏や今川義元もこの寺を庇護しています。また、徳川家康が今川家に人質となっていた頃、当寺で勉強していたという徳川家にゆかりの深い寺です。このようにこの地域では、とても格式の高い寺院です。 通信使は第1回から3回まで清見寺に泊まり、それ以降もこの清見寺に立ち寄ることが多かったようです。そのため清見寺には多くの扁額等が残されています。 なお、鞆の浦にある福禅寺、牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として、国の史跡に指定されています。 <Q18>通信使の一行が江戸に到着したあとは、どのような儀式があったのですか。 <A18>江戸に着いたあと数日は休養し、いよいよ将軍との面会です。通信使一行の先頭を行く清道旗をたて、正装をし江戸城(注8)に向かいます。正使の前後には副使をはじめ、旗や楽器、武器を持った随行員と続きます。その前後に案内役の対馬藩を中心に、警固をする人々が続きます。江戸城の大広間において、幕府方も御三家をはじめとして、重責を担う幕閣が参内します。この席にはかって、大岡越前守や吉良上野介も参席したことが記録にあります。 さて、いよいよ国書の提出となります。朝鮮国王の国書(注9)を奉呈する際には四拝礼が行われます。このとき使節と将軍の間に国書が置かれました。 朝鮮使節は、自国の王の国書に対して四礼拝をおこないました。将軍は朝鮮使節が自分に対して四礼拝をおこなったと受け取っていました。 そのあと、国王からの土産物を将軍家に贈呈します。一行も後日、将軍家から国王への土産物を送るほか、通信使一行にもそれぞれに土産をもらいました。その間、江戸には2週間前後滞在していました。この間にも、漢詩の唱和をはじめ、多くの訪問者を受けています。 |
| バスツアー(博多〜大阪) 博多から大阪まではバス旅行をします。その際に立ち寄る場所は、広島の下蒲刈と鞆の浦、そして岡山の牛窓の3カ所です。以下に、簡単に説明します。 【下蒲刈】 昔から下蒲刈町は瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えてきました。当時の記録によ ると「安芸蒲刈御馳走一番」といわれたほど、歓待されたことが記されています。現在、朝鮮通信使資料館(御馳走一番館)には、通信使人形、食事の三汁十五菜(注10)、通信使行列模型などが復元されています。 朝鮮通信使に振る舞われた三汁十五菜の復元模型。儀式用の膳も引替膳も昔からの習慣で吉数でもてなしました。儀式用の膳として朝夕は「七五三の膳」(注11)、昼は「五五三の膳」を用意しました。しかしこれらには箸をつける程度で、そのほとんどは、お土産として持ち帰ってもらっています。実際に食べてもらう引替膳は「三汁十五菜」とし、鯛焼きや雉(きじ)つけ焼き、かも杉焼きなどが作られました。 現在、下蒲刈町には朝鮮通信使の資料などを展示した朝鮮通信使資料館「御馳走一番館」が松濤園(しょうとうえん)内にあり、朝鮮通信使の行列を配したジオラマ模型や朝鮮通信使船を精密に再現した10分の1の模型、通信使の関係資料などを展示しています。 【鞆の浦】 昔は陸路の山陽道より、瀬戸内海の航路の方が交通の主役でしたから、当然街道沿いの宿場よりも港町の方が栄えていました。特に鞆の浦は瀬戸内海の中央部に位置し、古くから「潮待ち」として、瀬戸内を代表する政治、文化の中心として栄えてきました。港には全国からの商船が寄港し、繁栄を極め商家が軒を連ね、今日では想像できないほどの繁栄ぶりでした。そうした商人達が援助して建てられた寺が、今日でも数多く残っています。 朝鮮通信使が滞在した福禅寺・対潮楼(注12)からの景色は、通信使をして「日東第一形勝」(注)といわせるほど眺めの良いところです。その関係で、この寺には第一級の交流の記録が数多く残されています。この他、歴史民俗資料館(潮待ちの館)や太田家住宅などがあります。 鞆の浦の通称「寅さん」に、昨年あちこちを案内していただきましたが、白壁の町並みや万病や長寿に効くといわれる「保命酒」を売る酒屋などが、当時をしのばせてくれます。 |
| 【牛窓】 牛窓は古代から風待ち・潮待ちの港町として、また、江戸時代からは造船の町として栄えてきました。当時港には御茶屋や岡山藩の施設が数多く並んでいました。現在、通信使関連の施設としては海遊文化館があり、多くの資料が保存されています。 牛窓の「しおまち唐琴通り」は、牛窓町の東にあって、今も港町の風情を残しています。朝鮮通信使の一行が宿泊した本蓮寺や、かって華やかな接待が行われた御茶屋あとなどがあります。 |
| 本蓮寺は、南北朝時代(1347)京都妙顕寺座主・大覚大僧正の法華堂(現本堂)建立に始まり、現本堂は、1492(明応元)年の再建されたものです。室町様式に桃山風の装飾、日蓮門下各寺院本堂としては、最も古い番神堂などがあります。 「唐子踊り」(注13)は毎年10月の第4日曜日に疫神社で秋の祭礼として奉納されます。小学生の童子二人が、今日では意味不明の言葉(おそらく昔の朝鮮語)を語りながら舞う姿は通信使の小童(注14)を思わせます。 |