5月16日
川崎市ー東京・皇居外苑
 川崎駅の駅頭には、通勤・通学の人たちが行き交い、気ぜわしい。たくさんのデイリー参加者が来てくれた。毎日参加人数を調べる中村進さんが指さしながら数えると、何と60人近い。毎日用意しているコース地図は20枚、コンビニを探して40枚を大急ぎでコピーする。朝の日差しの中で出発式。昔の朝鮮通信使にならって、「正使」の宣相圭さん、「副使」の韓南洙さん、「従事官」の崔悳基さんが紹介される。韓国語一口講座も今日が最後、@「アンニョンヒ カセヨ(さようなら=送る側から)」A「アンニョン ヒ カセヨ(さようなら=送られる側から)」。井上さんの通信使の話に続いてのストレッチは小林隊長がリーダー役。
 川田さんの「コッチャ!コッチャ!」の掛け声(檄)でスタート。8時10分の気温は16℃。ソウルをスタートした時の仲間全員が揃う。多摩川を渡り東京都に入る。病院から復帰した井上夫人の政江さんは「ゴールに間に合いうれしいです。韓国でのウオークは厳しかっただけに、強い印象が良い思い出として残っています」と話す。足の痛みが直った佐藤恵子さんは「ひざの軟骨が減ってぶつかって痛かった。歩けなかった期間があったので、うれしさは半分。それでもまたみんなと歩けてうれしい」としっかりした足どり。 
 10時半、宿場の面影を残して町づくりを行う品川宿でトイレ休憩。11時品川駅では民団中央本部の韓在銀副団長らがお茶のサービス。国道15号の歩道をひたすら北へ進む。12時過ぎに芝公園で昼食。民団からおにぎりの差し入れ。ここからは韓国大使館の黄鉉卓・弘報公使も加わって歩く。ソウルから歩き続ける李恵美子さんは「おかげさまで、という意味がよくわかりました、たくさんの仲間のおかげで、歩けています。韓国語が話せない在日韓国人が増える中で、こんなにたくさんの日本人が韓国語を話し、韓国に興味をもってくれて、こんな強い意志を持った“普通の人”がいるなんて」と目を丸くして話す。  伊能ウオークで日本全国を歩いた嶋文子さんは「夢のような46日間でした。韓国のサポートが素晴らしかった」と韓国のテレビのインタビューに応じる。
 日比谷公園で隊列を整え祝田橋の交差点に向かうと、韓服姿や「お疲れ様!」の声で迎えてくれるたくさんの人が待っていた。握手を交わしたり、抱きあったりしながら皆顔をほころばせて、そして涙ぐみながら、桜田門にゴール。(写真上)歩行距離は20キロ、総歩行距離は1、129キロになった。皇居外苑では旗竿などが禁止のため、折りたたんでの静かな到着になった。全員で記念撮影を行い、韓服に着替えた韓さんと私も記念写真。(写真中)デイリー参加者に宣さんからハングルで氏名が書かれた「参加証」が渡され、ゴールを喜びあった。
 強い感激があったわけではない。またそれほどこみ上げる気持ちもない。実に淡々とした、そしてさわやかな目的地への到着だった。宣さん、韓さん、崔さんという3人の現代版「朝鮮通信使」を江戸城に無事届け終えたという、むしろ「使命を果たした満足感」というのが実感かもしれない。新宿のホテルで開かれた完歩祝賀会(写真下)では、宣さんから、歩き通した本部隊員に「完歩賞」が手渡された。46日間の楽しく、そして厳しかった日々を思い出しながら杯を重ねた。毎日スケッチを重ねていた崔さんからは、メンバー全員に、似顔絵を描いた一枚の絵葉書が渡された。その裏にはこんな詩が日本語で書かれていた。
             夜明けに故郷の夢を見た
             今日も荷を背負い遠い道を歩いて行く
             人生とは遠く険しい道
             良き友 傍らに居ると
             軽やかな楽しい道になるんだね
【通信使 よもやま話】
 三使をはじめ、通信使の一行は礼服に着替えて品川の宿所から出発した。大阪や京都を見てきた一行にとって「江戸は三倍勝って見える。左右にひしめく見物人の数の多さにも目を見張る。つたない我が筆先ではとても書き表せない」と、当時江戸の100万都市を見て驚いている。
 「朝鮮人来朝図」に、道を挟んで両側に町屋の軒下に見物席が設けられ、何列もの見物客が見守っている様子が描かれている。また江戸名所記には、通信使一行のあとに象が歩いている姿があるが、「象が通信使と共に来日した記録はなく、象と朝鮮人の組み合わせは珍しいものを歓迎する好奇心の旺盛な江戸っ子の遊びであった」といわれる(辛基秀「朝鮮通信使の旅日記」)。
 江戸に入ると日本橋から浅草を経て、客館のある東本願寺に到着した。第7回までは馬喰町の本誓寺であったが、火災のため第8回からは東本願寺に変更となった。東本願寺の敷地は1万4、000坪もあったので、境内には三使や上官以外の人たちをはじめ、下官のために臨時の小屋も建てられ、終わると解体された。現在の東本願寺は戦災にあい、かっての面影は無い。
 約1ケ月間、江戸に滞在する間に、江戸城において公式行事として、国書の伝達・接待への出席・幕府との交渉・馬上才の上演・幕府からの国書の受け取りなどがあり、その間に文人たちと詩歌の応答、筆談と忙しい毎日を送っていた(辛基秀・仲尾宏「朝鮮通信使の旅」)。

スケッチする二人。崔さんの絵(左)、大津さんの絵(上)

 

5月15日
藤沢市ー川崎市
 このウオークに二人の「画伯」が帯同している。
崔悳基さん(韓国・釜山)と大津武士さん(宮崎・日向)は毎日さまざまな場所でスケッチ帳に「サラサラ」と短時間に風景・人物を描写する。今朝二人はお寺の山門で違う方向を見ながら写生している。絵を見ると崔さんは、大津さんの姿を、大津さんは境内を描いていた。
 いよいよ後二日間、今日もデイリー隊には多数の参加者が顔を見せた。出発式で毎朝行う宣さんの一口韓国語は@「パンガスミダ」(初めまして)A「ジュンビ ガ デアスムニカ(準備が出来ましたか)。井上幹夫さんが、今日のコースでの朝鮮通信使の話をする。デイリー隊用のコース地図が足らなくなり、急遽コンビニで20部をコピー。   
  8時10分スタート。国道1号の松並木を進む。交通量は極めて多い。甲高いブレーキ音、排気ガスの臭いと共にトラックのエンジン音と道路との摩擦音がひっきりなしに続く。昨日の潮騒の音が懐かしい。昔の朝鮮通信使が訪れた頃は潮騒の音はあったが、車の騒音は無かった。かわりに朝のニワトリの鳴き声、小鳥のサエズリ、林を渡る風のそよぎ、川の水のせせらぎなどの音の世界にひたっていただろう。国道を歩いているとこんなことが頭に浮かんで来る。 2時間近く歩いて、11時前ようやくJR戸塚駅でトイレ休憩。1時間毎ぐらいにトイレ休憩を取りたいのだが、人数が多くなるとそれなりの人数が用を足せるトイレでないと、時間ばかりがかかる。難しい選択がコースリーダーに課せられる。今日は地元の中村義則さんが中心になってのコース先導。住宅街の坂の上で、原晃さん(横浜W協会)が杖を突きながら待っていた。たくさんの缶ビールとジュースを差し入れてくれた。足が悪いので一緒に歩けないため、せめて冷たい飲み物で一息ついてもらおうと、3時間も待っていてくれた。「相模国」と「武蔵国」が「境木立場跡」にある大きな木で分かれている。
 12時20分、JR保土ヶ谷駅前で、各店に分れて入り昼食。ファミリーレストランで食べていると外は強い風雨。置いてある自転車が倒れるくらいだ。天気予報どうりだ。雨の中を歩いていると20分で雨は上がり、今度はかんかん照りに。雨傘は日傘に変わる。公園入り口で、ソウルから大阪まで参加した岡安サダ子さんが仲間の人たちと迎えてくれた。車椅子に乗った友人の服部一弘さんは車椅子を三輪オートバイに乗せて、韓国のW杯会場を全部回ったことがあるという。横浜駅に近づくと今度は、民団神奈川県地方本部の呉吉明さんらが、韓国旗を振って激励してくれた。(写真左)
 第一京浜国道(国道1号線)の歩道をひたすら北上、午後5時前にホテルに到着。ようやく病から復帰した井上幹夫さんの夫人、政江さんが元気な姿で迎えてくれた。民団神奈川県川崎支部の尹済栄さんらも迎えてくれた。歩行距離は33キロ。夜はゴールの前夜祭をホテルで行った。韓さんは「みなさんの歩く姿の中に人生を見た。《歩く》ことは《生きる》ことそのもなんだ、と教えられた。カムサハムニダ」と跪いた。崔さんは「たくさんのことを学んだ。厳しい時に手を差し伸べてくれるのが親友です。膝が痛く満足には歩けなかったが、たくさんの心の友だちが出来てうれしいです」と日本語で話した。いいえ韓さん、崔さん、私たち日本人の方がみなさんの暖かく、やさしい心に接して、かけがえのない友人が出来ました。ほんとうにありがとう。
【通信使 よもやま話】
 通信使の日程は藤沢から品川までが一日の行程になっていた。保土ヶ谷で休息を取り神奈川の宿に着き本陣の客館で昼食をとった。
 神奈川の宿場はぺリー来航後、海外に開かれ横浜と名を変え発展して行った。川崎では藩主の茶屋で休息を取る。「家の構造が立派で、庭も広くきれいで、これまでの茶屋では最上だ」と述べている。
  六郷川(多摩川)に着くと、最後の川は幕府が用意した船で渡る。淀川の「川御座船」ほど豪華ではないが、彩られた船は絹の布で覆われ、金や漆で光輝いているようであった。夕方に品川の宿に着き、客館となった東海寺に宿泊した。この寺は明治以降寂れて、今では昔をしのぶことは出来ない。
  第9回の通信使が川崎に着いた頃、江戸では町奉行の大岡越前守が先頭に立って、警備の最終点検、確認を行い、道路の整備、通貨する道路の清掃などの徹底を命令していた。

5月14日
小田原市ー藤沢市
 朝から曇、気温は18℃。旅館の玄関では韓さんが「番頭さん」になって、靴とサンダルをきちんと並べている。今日は湘南ふじさわウオーキング協会の平野会長と中村義則さんがコースリーダー。復帰した井上幹夫さんが朝鮮通信使の行動などを説明する。神奈川県ウオーキング協会の清田会長らに見送られて8時10分に出発。軽トラックの移動魚屋さんが、金目鯛を裁いている。買いに来たおばさんが「どこから歩いてんの?」「ソウルから」「ええー?」と怪訝そうな顔。「韓国からですよ」ともう一度答えると「あれまあー」と目を丸くする。
 旧道から国道1号に入り、ひたすら右側の歩道を進む。通学の高校生たちの自転車とすれ違う。(写真下)歩道の幅いっぱいで、ぶつかりそうだ。「海抜6.5m」の標柱がある。海が近いからかな。酒匂川を過ぎると松並木。今までの街道筋にはたくさんあったが、神奈川県にもまだ残っているんだ、と思わず感心する。今日は暑くなるのかな、と思っていると風が出て来た。前(東)から吹いてきて、気持ちがいい。「高層マンション反対」の黄色いのぼりが並んでいる。洗濯して乾かなかった靴下をザックにかけて乾かしながら歩く女性隊員が前を行く。
 10時過ぎ、コンビニで昼食を調達。毎日おにぎりといういわけではなく、日本そば、中華そば、サンドイッチ、幕の井弁当など、いろいろ。大磯町にも松並木が残っていた。東京ゴールまで今日を入れてあと3日になったが、疲労困憊のためか、歩きながらの会話がとても少なく、黙々と歩く姿が目立つ。荷物を今日の宿まで運んだワゴン車と大磯町役場で合流。今日はナビゲーターがいなく、支援ドライバーの小瀬古さんが車のナビゲーションを頼りに運転している。三重県鈴鹿市に住んでいるので、土地勘がなく、我々と合流するのが一苦労だ。
 浜辺に出て昼食。若者たちがサーフィンを楽しんでいる。ここで旧知の「伊能ウオーク」支援ドライバーだった大庭さん夫妻と、伊能陽子さんらと合流。午後は松の防風林に囲まれたバイパスを歩いた後、2時過ぎから海岸線に出る。防風・防砂の柵が続く海浜歩道で、打ち寄せる波の音が心地よい。柵を越えた海からの砂が歩道にたまり、吹き溜まりのように道をふさいでいる。靴が沈み、砂が中に入り込んで歩きにくい。遠く江ノ島が見えてきた。
 「浜昼顔」の淡いピンクの花が砂浜に群生している。(写真中)バーベキューを楽しむ若者たちの網の上から、サザエの壷焼きの磯のにおいがおいしそうに漂ってくる。横になって潮騒の音だけを聴いていても気持ちがいいだろうな、などと思いながら後ろを振り返ると、韓さんがだいぶ苦しそうな表情で歩いている。「ハウメニー キロメーターズ?」と英語で聞いてくる。午前中はワゴン車で移動し、昼食後に歩き出したのだが、もう「限界」の10キロをオーバーしているようだ。ワゴン車の小瀬古さんに携帯で連絡し、合流を待つ。交差点でようやくドッキング出来たが、だいぶ歩く列からは離されてしまったので、私もワゴン車に乗り宿へ向かう。宿に着くと韓さんが、宣会長の名刺が使い切って無くなったので、至急作れないか?と頼まれる。宿のおかみさんと一緒に近くの印刷店を回り、4軒目で「朝鮮通信使ウオーク」の説明をして、ようやく「OK」に。今日は宿の関係で男女別別の宿になるため、本隊は途中で到着式を行い、女性隊員は駅近くのビジネスホテルへ。男性隊員は午後5時過ぎ旅館に到着。今日の歩行距離は38キロ。
【通信使 よもやま話】
 出立の時間は毎朝5時〜6時。当時の旅人たちは朝4時に宿を出るのが通常だった。酒匂川では80余艘の舟橋を渡り,大磯で昼食をとる。馬入川(相模川)では90余艘の舟橋で渡った。この馬入川では第10回の通信使の到着寸前に浮き橋が流されて、再度作り直したこともあった。この時小田原の宿には人馬用のために275の村が、藤沢の宿には239の村々から人馬が徴発された。この年は凶作のため、村人たちにとっては、とても重い負担だった。その為、一部の村では減免願いも出されている。このような過酷な負担にもかかわらず、民衆との交流が続けられていたという。(上田・辛・仲尾「朝鮮通信使の時代」。
  「日東荘遊歌」の金仁謙は大磯での昼食後、「長い旅路に飽きたので、見物することにした。人里はすこぶるにぎやか、ここも相模の国というそうだ」とあり、隊を離れて個人的な行動も許されたことが知られる。この記録は公式のものではなく、個人的な日記なので、行列から離れて、個人的な行動も記録している。平塚宿付近の花水橋から左に見える山が「高麗(こま)山」で、安藤広重の絵にも描かれた平塚のシンボルの山。高麗の滅亡後、王族が移り住んだ、という伝説がある。茅ヶ崎の一里塚を過ぎたあたりから藤沢までの間に、松並木が少し残っている。

5月13日
三島市ー小田原市
 宿のバスで出発地点の坂公民館まで移動。日差しはあるが雲が多く、今朝は富士山は見えない。
日曜日とあって、到着するとデイリー参加者が待ち受けていた。地元の人に加え、東京や千葉からの人たちもいる。「東静歩こう会」のコースリーダーが箱根越えのコースを説明し、8時過ぎにスタート。「朝から暑いですね」と宣さん。「上に登れば気温が下がりますよ」と小林さん。韓日の二人の隊長が先頭で話す。連日先頭付近を歩く宣さんの顔が引き締まってきた。瓢箪が家の軒先につるされている。小林さんが「水やお酒を入れます」と話すと、宣さんが日本語で「マッコリを入れますよ」と答える。後ろのウオーカーが「ソジュ(焼酎)」と言うと、宣さんが「ソジュはないですよ」。国道の長い坂道を登って行くと、風が谷から吹き上げて来て、気持ちがいい。石畳の旧道に入ると。今度は風が山側から吹き降ろしてくる。ヒンヤリして眠気が覚める
 新緑がまぶしいいほどに美しい。登り道が続くが、杉木立の石畳も続き、箱根越えの旧東海道は変化に飛んでいて、まさに「峠越え」の気分を満喫させてくれる。1時間ほど登り、山中城跡でトイレ休憩。豊臣秀吉の北条攻めの攻防にかかわる史跡があちこちに残る。樹林地帯を抜けて国道に合流すると、「京まで百里」の道標があった。あと江戸まで二十余里の距離だが、昔の朝鮮通信使たちは「故郷から遠く離れた距離」と見たのか、それとも「お役目」の目的地がだんだん近づいて来た、と考えたのか。「想い」はそれぞれ複雑であったであろう、とはるか昔にタイムスリップ。10時20分、ようやく箱根峠に着く。この峠は国道、有料道路が入り混じり、横断が極めて難しい。2月にコースを調査した時は深い霧で迷い、また同じ場所に出てしまうことがあった。まず伊豆半島に向かう道路を横断、3本ある道の真ん中の坂道を登り、二股を左に下がり、交差点を今度は右に曲がる。ここには横断歩道はない。有料道路に続く道だが、有料道路の案内表示は何も無い。「歩く人がいる」なんて考えてもいない、設計だ。ここを左に横断(横断道路はもちろん無い)、下から合流する場所を、今度は右に横断し、ようやく旧道の入り口に着く。言葉ではわかりにくい説明で、図をつけての「解説」が必要だが、とにかく案内表示が無く、横断歩道も無い。これが天下の箱根越えの国道1号の、「歩行者」の視点をまったく欠いた、無視したひどい状況だ!?!。
 石畳の長い下りが続くと、ようやく芦ノ湖畔に出る。日曜日なので観光客が多い。ワゴン車で先回りしていた韓さんが、家族連れの子どもに「アンニョン ハセヨ」と声をかける。キョトンとした男の子と握手するとニッコリ笑う。在日の李恵美子さんの友人で、掛川から参加している韓福子さんが韓国から観光に来た女性たちに「朝鮮通信使ウオーク」を説明している。富士山がうっすらと見えてきた。早めの昼食後、ここまでコースをリードしてくれた「東静歩こう会」のメンバーにお礼の拍手をして、正午過ぎにスタート。新装なった箱根の関所を見学。気温は18℃と涼しい。
 湖から外輪山までの旧道の石畳の急坂を上る。韓さんんもハアハアと息を切らしながら「苦手」の坂道を登る。下りにかかると、たくさんのウオーカーが石畳を登ってくる。余裕が出てきた韓さんは、次々に「アンニョン ハセヨ」と声をかける。「新聞見て知ってるわよ。ありがとう」と握手する女性ウオーカーに笑顔がこぼれる。苔むした石畳は凹凸のある小さな石の組み合わせで、歩きにくい。三島から歩いて見て、こんなに石畳の道が多いのには驚かされる。これだけ続く石畳の道は他には無い。この道を昔の旅人はわらじで歩いたのだから、さぞかし歩きにくかっただろう、と思う。
 一般道路に合流し、箱根湯本温泉街に入ると、車が渋滞している。国道1号を歩いて、午後4時45分に宿に到着すると、民団神奈川県地方本部の黄昌柱常任顧問ら7人が待ち受けて歓迎してくれた。参加証を渡された寺下武さんは「私からもプレゼントがあります」と大きいザックから何と日本酒の一升瓶を取り出した。こんな重い物を入れていたなんて。「ありがとう、今夜みんなでいただきます」。箱根越えを祝って宿の玄関先でビール乾杯、今日の歩行距離は30キロ。
【通信使 よもやま話】
 三島を出ると、いよいよ「箱根八里」の山越えである。
箱根八里とは、三島からは小田原までの八里(32キロ)をさしている。標高840メートルの山道を折れ曲がって登って行く。登りつめて少し下がった所に関所がある。箱根の関は通信使の来日ごとに新築されている。一般には厳しい箱根の関も、通信使はそのまま通過する。ただ関所は乗馬のままでは通れないので、三使以外は下馬して通過する。
 第7回の使節の箱根越えでは、雪が降っていた。その様子は「東槎録」によると、「昨夜雪が降り、峠の道がひどくぬかるみ、竹を伐って雪の上に敷いたので、乾地(かわいた地)を踏むようであった。一夜のうちにこれだけのことをやっている。命令が迅速であるとはいえ、物力の豊富さをみるべきであろう」と、幕府側の対応の早さを記している。
 第11回の通信使は箱根の関を越えたところで、山火事となった。「風が強いので、火の手が山を覆い、稲妻が走るように四方に燃え広がる。道とは至近の距離、煙と炎が天にみなぎる。ぐずぐずしていれば、焼け死ぬ恐れありと、駕篭かきを促し、急ぎ山を下る」と、山火事の恐ろしさを目の当たりに体験している。
 箱根湯本の近くにある早雲寺の山門には「金湯山 朝鮮雷嶺」の扁額がある。第5回、6回に書記として随行した金義信の号である。そしてこんな記述もある「相模の国・小田原へは日暮れて到着。人々の気性は激しいというが、美人も多く見かける」(「日東荘遊歌」)。

5月12日
富士市ー三島市
 宿のおかみさんに見送られて、出発地点のJR吉原駅に向けて7時15分にスタート。今日も富士山がよく見える。久しぶりに宣さん、韓さん、崔さんの韓国トリオが並んで歩いている。(写真中)宣さんは毎日ゴールまで歩くが、韓さんは体調の関係で一日のうち数キロ、崔さんは左膝痛のため、午前中の20キロを歩いている。今日は富士山が朝から見えるとあって、三人の足取りも軽い。コンビニで昼食を買う。今日は「冷やしタヌキうどん」。
 吉原駅前の公園にはデイリー参加者が集まっていた。2年前の韓国一周友情ウオークのメンバー、野依六郎さんの顔も見える。2日間の参加予定という。一口韓国語講座は@「コマス ミダ(ありがとう)」A「カムサハムニダ(感謝します)」。一番使うあいさつの言葉で、カムサハムニダはコマスミダの丁寧語という感じ。中村進さんが毎日、参加者の人数を数えるが、今日は31人ととても多い。ゴールが近くなった土曜日だからかな。
 8時40分に歩き出す。20分で海辺の堤防道路に出る。左に富士山と松林、右に大海原と伊豆半島が広がっている。雄大な風景に皆感激の様子。前方から風が吹いてくる。打ち寄せる潮騒の音も聞こえる。松林が成長し、富士山は全容ではなく、頂上部だけが見える。今日の「主役」は何と言っても「海」。浜辺にはつり人の姿が点々と続く。海岸線がどこまでも続くような、この風景に刺激されてか、歩くスピードが速い、速い。時速6キロを越えているんじゃないかな?。地引網を二手に分かれて約30人が引いている。写真を撮りながらなので、すぐ最後尾になる。アンカーの「東静歩こう会」のメンバーが「最近は網になかなか魚が入らんもんな」とつぶやく。地引網を行う「、、、丸」と書かれた小屋がたくさんある。
 大津さんが「金井さん、原付近には何時に着くじゃろな?」と日向弁で聞く。息子さんのお嫁さんの両親が地元に住み、会いに来るそうだ。10時半、手を高く上げて迎える3人が近づくと、大津夫妻が駆け寄る。だいぶ前から待っていたそうだ。(写真上)「いいお嫁さんだでな」とニコニコ顔の大津夫妻。夕方の再開を約束して二人はみんなを追いかける。
 11時の気温は25℃。富士山の上空にはうす雲が広がり、位置も左後方に小さく見える。先頭との距離が500メートル以上になり、掲げる旗が小さく見える。昼食場所の千本松原公園に着く。午後は狩野川の河川敷を歩いて旧道へ。足の豆をかばって歩いていた康さんの足が痛くなり、タクシーで宿へ向かう。ニ日前の雨で濡れた靴の中敷をドライヤーの熱風で乾かしたら、縮んでしまい、新しいものに変えたのだが、豆が出来たそうだ。三島の市街地に入ると、祭りの神輿に追いつく。威勢のいい掛け声を聞きながら、ゴールの三島大社に着く。デイリー隊はここでゴール。本部隊は明日の箱根の峠越えの分を5キロほど歩くため、旧道を歩き続け、宿の出迎えのバスに乗り、ホテルへ到着。今日の歩行距離は33キロ。
【通信使 よもやま話】
 吉原の宿を出てしばらく行くと田子の浦が見えて来る。
 山部赤人の歌に「田子の浦打ち出でて見ればま白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける」とあり、田子の浦からの富士山は絶景であった。今日では工場地帯になり、歌からは想像出来なくなっている。
 次の原宿は東海道53次のうちで、富士山を一番近くで見ることが出来る。葛飾北斎は「東海道五十三次」のうち「原宿」で通信使を描いている。富士山を眺めながら、一行が感動する様子が描かれている。また北斎は「富岳百景」の中で「来朝の不二」と題して、馬上の小童二人を描いている。最後の通信使が江戸に来た時、北斎はまだ4才で、この作品は成年以降なので実際に見て書いたものではない。
  通信使一行はどの回でも富士山を見て大いに感動している。しかし「日東荘遊歌」では「優雅にして高大、奇観とは思うが先人の日記に見るのとは異なる。天下の名山中、比するものはなしと言うが、それは井の中の蛙同然、笑止の極みである。、、、」と述べている。しかし次ぎの日の日記には「この峠で見る富士は倍以上高く見える。、、、海東の名山第一である」と言い、更に「芦ノ湖が蕩々と水をたたえ、、、、まさに天下の奇観。、、、、わが国のコンガル池を壮観というが、ここに比べて見れば、あたかも窪みの水たまり、、、、、ともあれこれは大絶景と云える」とまで言わせている。