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「わっ、おっしょさんっ、お客さんですっ、お客さんっ」
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「これはご無礼しました、よう来たのう、んでは、さっそく」・・かいげんじ
「折込どどいつ虎の巻」・・・・かいげんじ
折込どどいつ虎の巻は、昭和54年、高井平万坊氏が著わした労作です。氏は中道風迅洞氏の主宰された「現代どどいつ教室」の事務局長を勤められた方で、教室初心者の方々のために、手引き書を作成して会員の定着や作句意欲高揚に努められるなど、まさに縁の下の力持ち的役割で、中道風迅洞先生の信頼誠にあつい方でした。
高井平万坊氏は教室の初心者に対する個人指導なども行っていたそうですが76歳の時に、万一のことがあれば教室の運営に支障をきたすかも知れぬという考えから個人指導を打ち切り、その代わりとして「多少系統だった作句虎の巻を編集し、その原稿を風迅洞師匠にお願いして再三修正、加除、添削の労を煩わし、ここに本書を刊行」したということです。
本書に関し中道風迅洞氏も『その基本的な事項は今なお輝きを失わず初心者はもとよりどどいつ創作に習熟した者にとっても、改めて学ぶべき点が多い』と評されています。
折込みどどいつ虎の巻 目次
まえがき
選者蛇足 (中道風迅洞氏寄稿)
其の一 どどいつの基本的性格
* 平易性・日常性・即興性
* 庶民性・野暮さ加減
* 未練の文学・敗者の文芸
* どどいつと花鳥風詠
其の二 どどいつ作句の諸問題
* 作句の基本的規格
* 作句と共感性
* 余情とカメラアングル
* 作句の独創性
* 自分の歌をつくれ(中道風迅洞氏寄稿)
* なぜ「現代どどいつ」なのか(中道風迅洞氏寄稿)
其の三 作句技法あれこれ
* 描写はなるべく具体的に
* 比喩的表現・擬人法などの効果と注意
* 同語反復・類語・対照語
* あて字・あて読み・振仮名
* 作句法のいろいろ
* 作句のタイプ
* 結び
* 案内と奥付
以上が本書の目次です。以下目次に従って掲載して行きます。全文でなく抄録ですが、取り上げた目次項目については一切の省略をしておりません。
本書は昭和51年に初版100部、54年に再版200部、それぞれ高井氏の自費出版で刊行されたもので当然ながら今は絶版となっています。尚、高井平万坊氏は平成七年二月に91歳の天寿を全うされて逝去されています。
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その一
まえがき………………………………・省略
選者蛇足 (中道風迅洞氏寄稿)……・省略
其の一 どどいつの基本的性格
* 平易性・日常性・即興性
どどいつ作句は、文字・語句・文詞章を万人に読めるよう、解釈できるようにすること。
(1) 文語体でなく口語体で作詩する。
悲しきこの恋
さびしかりせば
生けるしかばね
むなしかりけり
悲しいこの恋
さびしいけれど
生きてるあかしが
胸にある
(2) ひらがなを中心にして、漢字でなければ読者に読みにくい場合、
また内容等を読みとりにくい場合は漢字にする。
靄(もや)鮑(あわび)のように、意味のわかる場合はでき得る限り平仮名表現にする。
愛、相、合、藍、音は同じで三つ四つも漢字のある場合は、「あいの でなく、藍の」の表現となる。
燃え差し蚊取りに
夜業の針を
置いて蛍と
仕舞風呂
燃えさし蚊とりに
夜なべの針を
おいて蛍と
しまい風呂
日本一文字に詳しい風迅洞師匠の「風迅洞自選どどいつ集」の作吟を見れば、漢字と仮名の使い方がよくわかる。
極端な例ではあるが、漢字の多いのも詩文としてのやわらかみに乏しく、平仮名だけでも読みにくいものである。
地獄極楽
会者定離
七転び八起
娑婆の風
じごくごくらく
えしゃじょうり
ななころびやおき
しゃばのかぜ
学のあるところを見せたいのか、年配の方が難しい漢字を使う傾向があるが、今の四十代以下の人達は当用漢字しか習わないので、明治、大正の教育を受けた人のむずかしい漢字は読めないのがあたり前です。
(3) むずかしい語句、熟語を使ってそれが却って効果的である場合は差し支えないが、自分の自選どどいつ集に残すものは別としても、原則とし投句の場合は日常用語の平易さに徹することを頭に置くべきである。
○ 夜目遠目
○ 起請をかわし
○ 唐瘡こわい
○ きりきり片し
○ 流連ける
○ しょ場
これはほんの一例であるが、著者が関係している読書グループ(高・大卒)の年齢35〜45歳の主婦にテストしてみたが80%以上解釈できない。
(4) 即興性―思いついたらその場でさらりと創る。考え過ぎは理に落ちて却って面白くなくなる。
ヒップヒップと
きこえはよいが
和漢辞典じゃ
ケツと尻
引いてもだめなら
気をとりなおし
しおどき計って
押してみな
折込み「ひきわけ」の起句と結句の折込み音から、ふとヒップとケツが頭に浮かんだので、即興的に作ったのが上の句で、「ひきしお」の折込みで、水前寺清子の「ひいても駄目なら押してみな」わ思い出して作ったのが下の句である。
宿題よりも、席題のほうが出来栄えのよい場合が多いのは、時間に余裕がなく、即興的に生の感覚が出ているからではなかろうか。
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その二
* 庶民性・野暮さ加減
大衆の日常生活の中から拾い上げた心情や情景でも、作者の詩魂やユニークな表現があれば立派なウタになる。
欲も支度も
タンスもないが
嫁にいきたい
たった今
うたたねするのに
丹前かけて
だれにもやれない
寝顔見る
押して押されて
終電匂う
やけと酒との
かえり道
うそや駄じゃれで
おもろい奴が
ガンで死んだと
知らせ来る
短歌も俳句も人間の詩にはちがいないが、とりわけ「どどいつ」はその庶民性・日常性・平易性・野暮さ加減において、いわゆる「人間臭さ」に満ちている、人間の詩であり、生活の歌である。
勝利の栄冠に輝いたり、幸福の絶頂にあるような場合よりも。金がない、病気で苦しんでいる、女に振られたとか、何かすねに傷を持っているような、そんな人間の心情や情景を歌い上げるどどいつにひかれる。
財布からっぽ わびしい日曜
やけに血を吸う 蚊をはたく
ガフキーマイナス いろけはプラス
春は毒やら くすりやら
逢って別れて 流れる雲の
あれきり便りの ないまんま
地位・身分・財産豊かで立派な屋敷に住み、ぜいたくな生活をしているものでなく、いわゆる、平凡なサラリーマン・職人・長屋の八っつあん熊さん的な庶民が、夫婦喧嘩をしたり、浮気する亭主とやきもち女房の情景等を歌ったもの、そうかと思うと、場末の赤提灯に首を突っ込んでコップ酒をあおりながら、会社や家庭の不平不満をぶちまけ合っている庶民の情景がどどいつの題材としてふさわしいように思えるのである、
腹立ちまぎれに こわした茶碗
ニンマリ女房が わきにいる
妻とは書くだけ いで湯の浮気
お互いドテラに くるむ嘘
朝の女房の 機嫌の悪さ
何も言えない すねにきず
不平不満が 屋台で飲んで
調子はずれの おけさ節
赤いちょうちん モツ焼く音に
チュウにひかれて のれん顔
時折機関誌綴りをひもといてみると、こういう人間臭さの心や姿をうたった、言いかえれば野暮さ加減をうたったどどいつが山程ある。
風迅洞師匠は随筆「どどいつ手引草」のなかで『人間臭い庶民の野暮さ加減を、飾らず、気取らず、いつわらず、その瞬間を真剣に取り組むならば、入選・佳作を目当に情緒とか品格ある作品を作るより、入賞・選外のささやかな区分けを越えた、生きる証しであり、百に一つの我が意を得た作品が出来たならば、われ天才なりとおもうべし』と言っておられる。
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その三
* 未練の文学・敗者の文芸
野暮さ加減の人間臭いということを、風迅洞師匠はこのようにも表現している。
『気取らずに人間臭いということは。感情を虚飾なしに露呈することであり、これを端的に代表するものが みれん である。
どうも傾向として俳句や短歌のほうが自らに厳しいようであるし反省の文芸であるように思われる。ところがどどいつでは、いっぺんさようならを言ってから、またひき返してもう少し抱きしめようというようなところがある。いやなものはいや。逢いたいものは逢いたい。率直かつわれとわが心の みれん に正直であったほうが、なまなましく人の心を打つようである』
次の作品はそれにぴったりの風迅洞吟である。
他人のそら似と わかった背へ
未練がついてく 五歩六歩
逢えるその日を のぞみに生きて
日暮れせつない 時計みる
逢えば別れが かならず来ると
さとりきれない 片えくぼ
更に風迅洞師はこうも言っている。
『私は どどいつは未練の文芸である と言ったが別の言い方をすれば どどいつは敗者の文芸 なのかもしれない。どうも勝利の栄冠に輝いたり、したり顔で結論を押しつけたり、自分の信念をつらぬいたりというような甲斐性のある中身は、あまりどどいつには出てこないようである。
浅井善三亭氏はいみじくも「銭湯文学」だと言われたが、スネの傷や胸の傷をいたわりあいながら、背中を流しあいながら、ブツブツ文句を言ったり、慰めあったりするようなところが、どどいつの真骨頂のようである』
食いたい、やりたい、悲しい、うれしい、くやしい等、人間の欲望を露呈する中に、理性とか反省とかに弱い面があるのが人間である。大好きな天ぷらを出されたが、お腹をこわしているので…とわかっていながら食べてしまう。
損するのがわかっていながらギャンブルがやめられない。荷厄介になりかけていながらデートがことわりきれない等々。意志の弱さをうたった名吟が、毎月の宿題にたくさん出てくる。
どうも俺には クジ運ないと
しばし眺める 嫁の顔
俺が寒気りゃ 彼女も寒い
やはり師走の まるい背な
あたるはずない あの宝くじ
飽きもしないで 明日も買う
反対に、どどいつに理性や反省をいれると、教訓的になり、ことわざ、格言的になって、どどいつとは縁遠くなる。
『どどいつは落書きである。但し、人間愛を根拠にした共感を呼ぶ落書きでなければならない』と、風迅洞師匠は解説している。
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その四
* どどいつと花鳥風詠
風迅洞師匠はまた、どどいつの野暮、人間臭に関連して、どどいつは単なる花鳥風月をうたうには向かないと次のように言っておられる。
『初歩の投句者に案外多いのが
沖の白帆に 真赤な夕陽
静かに暮れてく 瀬戸の海
といったような風景描写吟である。もちろん幅の広い現代どどいつあっては,子のような傾向の作品を拒否するものではないが、どうもいくらキレイにうたってみてもひろがりはなく、したがって迫力もないようである。
このような叙景を重んじているのが、古典的な短歌であり、月並みな俳句であるから、この場合はそちらの領分におまかせしたいという意味である。
小春日和に 浮き雲一つ
枯れ葉焚く煙 くの字型
かれこれ、一昔前の葉奈子さんの吟であるが結句の「くの字型」の発見が、単なる状況描写から抜け出て艶かしい。つまらぬ落ち葉焚きに人間の血が通い、初句の 小春日和 に呼応して品のいい色気を漂わせている。短歌でもなく、俳句でもない。まさにどどいつの領分であろう』と。
昭和四十九年三月宿題「たちばな」で、清水あや氏の投句
たちばな匂う 茶の国駿河
バスは伊豆の湯 ななめ富士
例会において互選の際、単なる風景描写と思い、大部分の生徒は点を入れなかった。ところがこれが見事に入選に選出された。
この句に対し師匠の選評は「一見風景描写であるが全体のうたい上げが大らかで万葉調の立派な作品であり、特に結句の ななめ富士 が、バスに乗っている作者の観察を見事に生かしている。」なるほど、曲がりくねった天城の山坂を走りながら、秀峰富士を右に左に斜めに見ながらの作としたら、単なる風景描写でなく、正に人間の血が通っている立派などどいつである。
におう花の香 うすむらさきの
ガーデンライトに 曇る月
海鳴りひっそり きいてる真昼
砕けて散ってる サングラス
白萩こぼれる 吉野路しぐれ
さけて二人で いる茶室
鈴虫音色と まんまる月を
秋が届ける 戸のすきま
逢えたときには 真赤な夕陽
血の色通わす 山や雲
ひとり潮鳴り きいてる春の
白い女波に 男波来る
花鳥風月に人間の心が通うと、このような品のよいどどいつになる。
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その五
其の二 どどいつ作句諸問題
* 作句の基本的規格
@ 折込みどどいつ
俳句は十七文字、短歌三十一文字、どどいつは二十六文字。言いかえれば十七音、三十一音、二十六音で構成されている。日本語というものは、七音と五音がいちばん調子よく納まるようにできている。
「どどいつ」は、普通横に四行に並べて書く詩型である。古来から漢詩の第一行を「起」・二・三・四行を「承」・「転」・「結」と称したことからどどいつ四行詩にわが教室でも便宜上これを使用している。
一行 起句 七音(八音)
二行 承句 七音
三行 転句 七音(八音)
四行 結句 五音
わが現代どどいつ教室においては、七七七五の二十六音というのは、原則的の基本の形であるから、調子を乱さない程度に多少字余りになっても差し支えない。
最初の起句などは、八音にしたほうが納まりもよく、転句も八音になる場合があってもよいが、結句だけは五音に納まるのが原則である。
どどいつあ野暮でも
やりくり上手
今朝もななつやで
ほめられた
の如く、自由自在に作句されたものを、花柳界・料亭等において、四畳半的の「唄いもの」として、三味線にのせて宴席の今日を盛り上げていたのである。
わが教室の「折込みどどいつ」なるものは、古くからあった和歌・俳諧の「折句」にヒントを得て、中道風迅洞師が、七七七五の頭に折込む形式を、昭和二十五年NHKとんち教室に登場させて一世を風靡した折込みどどいつが、
現代どどいつとしてわが風迅洞どどいつ教室において、二十年間つくり続けられて今日に至ったのである。したがって折込みとは四文字の言葉、例えば「おみこし」に対し
お―おもいおもいに
み―みている月夜
こ―こいをする馬鹿
し―しない馬鹿
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その六
A 作句入門
宿題の折込み四音を横に並べて書いてみる
あ
さ
く
さ
初めはテーマを決めなくていいから、先ず起句の「あ」のつく言葉を思いだして。七(八)
音の短文を書いてみる。以下、承・転・結句とそれぞれ七七五の短文を綴ってゆく。
どどいつは一つの短い物語(ドラマ)の描写であるから、折込みの各行即ち起・承・転・結句に意味があるのである。
起句 起こして 何が
承句 承けて 何して
転句 転じて それがどう
結句 結ぶ なった
というように各行のつながりがなくてはいけない。
あ 雨が降ってる 雨が降るから
さ 桜が咲いた 寒いじゃないか
く 雲が浮いてる クシャミが出るから
さ 猿芝居 酒を呑む
即ち、左のように各行分裂でなく、右のように各行の意味がつながるように作句するのが、如何に初心者でも一つの基本である。
次ぎに大切なことは作品を読んでみでリズミカルな語調でありたいということである。現代どどいつは、三味線とわかれて短詩型文芸の位置を主張しつつあるが、しかし心で歌うものであるから、音韻的には流麗であることが望ましい。
作った作品を口ずさんでなめらかであるほうがよい。それには各行の言葉の組み合わせに一つの基本的な音節のルールがある。勿論、絶対的なものではないが、
起句 七音 3音+4音
承句 七音 4音+3音
転句 七音 3音+4音
結句 五音 後述
のような言葉の組み合わせをすると、調子のよいどどいつが出来る。
例えば「こ・こ・こ・こ」の同字折込みの宿題が出たとする。
恋と いう字に 3+4音
恋した 若さ 4+3音
恋が 身を焼く 3+4音
恋年増 5音
こがれて いたに 4+3音
来ない あのひと 3+4音
この恋 だめだ 4+3音
コップ酒 5音
上段は慣用ルールに従って組み合わせたもの。
下段は反対の組み合わせをしたもの。読んで見ると調子のよしあしがよくおわかりと思う。
下段のような組み合わせは駄目だというのでなく、同じ作句をするならリズミカルということを頭において、調子のよい作品をつくって欲しい。尚、七音の組み合わせに2+5音、5+2音の組み合わせの場合がたまにはある。
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その七
また結句五音の音韻的な分析についてはいろいろな考え方ができるが、一般的には次のようにまとめられよう。
○ 五音で完結する固有名詞は通常一音節五音とみてよい。
(例) おみなえし
ポルトガル
○ 一般名詞「紙芝居」「電話口」などは五音と考えても差し支えないが、これらもやかましく言うと複合名詞なので
紙 芝居 2+3音
電話 口 3+2音
と音節をわけることができる。
○ 名詞と助詞・副詞・形容詞・動詞などの組み合わせになるものは
秋を 知る たばこ 吸う 3+2音
夜が ふける ただ ひとり 2+3音
の形がいちばん多いが。例外には
アメリカ へ 外国 機 しっかり ね あでやか さ 4+1音
などもある。
こういうふうに細かく見てゆくと、前述の起・承・転の各句の3+4、4+3の組み合わせも、もっと複雑な音韻の結合から成っていることは言うまでもない。
研究のため流麗な秀吟を取り上げて音韻学的に細かく分析して見るのも一興であろう。美しい響きの中にア行・ウ行・エ行・オ行などの母音がどのくらい使われているか、濁音や破裂音のこうかなど風迅洞師匠は若いころ、古今の詩歌をローマ字に書き換えて研究されたそうである。
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その八
* 作句と共感性
どどいつは作者のうたわんとする作意が万人に通ずるような作品。即ち共感性ということがもっとも大切なことである。
□ どどいつの平易性・日常性ならびに作句の基本的規格において既に解説したことと関連していることであるが、初歩の頃には上手・下手はさておき、先輩の作品の模倣にとらわれないで、作句の第一条件として、作ったどどいつが自分ばかりでなくよんだ他人に、作者が何をうたわんとしているかすぐにわかるように作句することが、共感性の第一歩である。
□ 何をうたわんとしているのが解かるだけでなく、いろいろな条件にあてはまって味があり、うまいなぁと読者をうならせすような作品を作ったとしたら、それこそ共感性であり、共鳴性であろう。共感性の強大な作品は名吟・秀吟である。
□ 短時間で作句する席題の場合、時間の余裕がないためか、折込みだけに追いまわされて、各行の意味のつながりが不充分で選評披露の折風迅洞師匠が
○わからないようでわからない
○わかるようでわからない
という評をされることがあるが、これは共感性ゼロで落第である。
□ これとは反対に作句時間がたっぷりある宿題作品において、どどいつも解かりキャリアも積んでいる者が、あまり考えすぎ、ひねくり過ぎて、自分だけはよく解かっているのであるが、さて一般読者には、其の作意が汲み取りにくい作品になってしまう場合がしばしばある。この場合この作品は共感性に乏しい骨折り損のどどいつである。
□ どどいつのせいかく第一条件である、平易性・日常性について前述したが、難しい言葉や漢字をあえて使うことを得意としているものがある。
戦前戦後の国語教育の一大変換を考えるとき。明治、大正のものに解かる言葉や漢字でも、戦後のものにはさっぱり解からないばあいがでてくるのは当然のことであるが、このことを頭におかないで、時代的のあまり難しい語句・漢字を使うのは共感性の範囲を狭くしていることになる。
□ 自分でもうまいと思わない、互選でもみとめられないのに見事入選する場合がある。この場合、自分も他人も名吟と認めなかったのに、あなたの句を選者が共感したとも言える。これは、他者の作品にたいする観賞評価の眼力の問題である。
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その九
* 余情とカメラアングル
的確にある瞬間の状況をつかまえながら、うたわれた瞬間の以前と以後に。ドラマチックな想像を読者がつけ加えることのできるような作品であったら素晴らしい。
女という名に
七夕あわれ
ふる傷さらさら
くぐる笹
湯加減どうだと
首出す男
戸の鍵しめない
白い肌
風迅洞師匠は「どどいつ手引草」の中で、私は「余情」ということをいつも強調する。「短詩形の文字は、水面に投げかける小石である」とも言う。
石の投げ方が悪いと、ポチャンと水面をかきまわして、乱れる波紋を起こし、そして沈んでゆくだけであるが、きれいに投げた石は、無限の波紋のひろがりを呼び起こしながら、同心円をひろげてゆくのである。
銘鐘のひびきもまた然り、小さく撞けば小さく、大きく撞けば大きく、いずれもゆたかな余韻のひろがりを見せて、人の胸を打つのである。
他の詩形はさておき、われらがどどいつでも、単なる説明だけでなく、その表現描写において、いずれも波紋と余韻のひろがりを大切にすべきだといっておられるのである。
これは中々むずかしい問題で、作者の作歌態度や眼力といったものが必要になってくるのであるが、簡単に申せば、僅か二十六文字の中に、あまりいろいろなことを欲張らないこと、世間一般の感情に簡単に妥協しないで自分なりの、ちいさな発見をつけ加えるということである。
広い夜空を
やいてる花火
あかるく浮き出た
背が二つ
追えば間に合う
足音耳に
障子背でしめ
座る意地
この句のように、ある瞬間の状況、情景に上手くカメラの焦点を合わせたために、そのどどいつの状景が単なる説明でなく、具体的にその場面。・舞台が目に浮かび、写真となり、絵になるどどいつ作品を評して風迅洞師匠は、これを カメラアングル とも シャッターチャンス とも言っておられる。
機関誌の選評欄にもこのことを「観察の正確さ、するどさ」または「視点の的確さ」の言葉を以って表現されている。
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その十
* 作句の独創性
師匠いわく「風迅洞が感激するのは、平凡でソツなくまとまっている一般論的作品よりも多少下手でも、癖があっても、作者独自の作品である」即ち人まねでなく、過去の作品になかった野暮能書きにある 自分のウタ をうたいあげるのである。
風迅洞師匠が最近わが教室で一番キャリアのある、いわば入賞作の多い優等生に対し、各人の作品がまったく
同じ傾向にある原因として、明治・大正の時代感覚
○ こぬ人を待ってじれている
○ 若妻ははずかし、うれし
○ 女は男をはずむ心で待つ。
というような類型的な感覚・境地から脱却して欲しいと要望された。大変失礼な言い方であるが、明治大正生まれの方々には、六十年七十年の人生感覚は総簡単にはかえられないものと判断するが、すくなくとも「情緒の類型化」からは脱出の挑戦を試みることをおすすめしたい。
あった残り火
あかあか燃えて
朝がまぶしい
熱い夢
味なさそいに
あえなくくづれ
あっさり別れの
朝茶汲む
こうした男女の情景描写は、いずれも大同小異の作風である。この程度の作品は、宿題投句の中では秀吟の部類であり、一流の文芸作品と認められているのであるから、この作風が悪いといっているのでなく、幅広い現代どどいつ感覚への脱皮を要望しているわけである。
次ぎに 《自分のウタ》《作者独自の作品》と一口には言うがこれはむずかしい問題で、創立以来二十年、既に宿題、席題併せて三万句以上荷達しているので自分のうたわんとする歌は、誰かが過去においてうたっているし、誰も使わぬと思った言葉も、誰かが幾度も使っているかも知れない。極端な言い方をすれば、現在投句している美奈さんの作品は、自分のウタだと思っても、人まねであり、独創性がないと言えるかもしれない。
但し、同じ題材・同じ着想でも、各自の持つ感覚は人それぞれ違うのであるから、自分独自の感覚でうたい上げたものは、自分のウタであり、独創の作品であると考えてもよいのではなかろうか。
もしやとなおした
良い印相の
押した最初が
借用書
熱い吐息を
あなたの胸に
あなたが吐かせる
あの刹那
上は主題其のものが着想新発見の苦であり、下の句は過去に度々うたわれた情景であるが、「あなた」二つの組立て表現正に独創的である。
雨に一寸
くもりに二寸
桜春待つ
いそぎ足
もしやで十二時
よもやで一時
想うむなしさ
知った二時
これは同一人の作品で、いずれも数字のコントラストがみそであるけれども、主題の新鮮さ、発見の独創性がいずれが強いかは言うまでもないであろう。
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その十一
* 自分の歌を作れ(風迅洞先生寄稿)
古来多くの詩人、うたびとが多くの詩句を残した。その数はおそらく天文学的であろう。俳句の一つもひねろうという人は全国に数え切れないぐらいいて毎日それらの人々が生み出す句は、これまた、気が遠くなるくらいの数であろう。
その上われわれは、なぜ「どどいつ」という詩形を借りて、ウタをつくらなければならないのか。それは「自分のウタ」を生み出すことだからである。勿論どどいつに限ったことではないが、どんな詩歌でも、昔の人の作った歌や、他人の作った面白そうな歌を、そっくりそのまま借りて来たり、ほんの少しだけ変えて物まねをやっているのでは、外見は格好良く見えても、「自分のウタ」とは言えない。
それなら、なぜ「自分のウタ」を作れということをやかましく言うのか。
われわれはどんなにたような生活をしていても、一人一人顔つきも性格も違うように、その人の人生は、その人だけのもの、その人だけが実感をもって生きている極めて独特の、個人的のものであって、それ故に貴重であり、かけがえのないものである。
その人はその人の眼で世の中を見ており、その人独特の感受性で受けとめ、その人独特の感想を持っている筈である。であるから、どんな素人でも、その人が本当に自分の受けた感じをよくつきつめ、確認し、よくえらんだ言葉で、自分なりの表現をするならば、それこそ「自分のウタ」でどんな専門家にも玄人にも負けない「存在価値」をもつであろう。
つまり「作る甲斐があるウタ」になり、そのような歌こそ、他人にも強い感動を与え、そう言う見方もあったのかと感心させることができるのである。
絵の展覧会を思い出して頂きたい。同じバラの花を描いても、裸婦を描いても、東郷青児と梅原龍三郎と林武と古沢岩見とでは、まるきり違う作品ができる。ある画家はほんものそっくりに写実的であり、ある画家は現実の裸婦の体にはありそうもない色や形をつかい、そのくせ独特のムード、迫力が見る人の心を打ち、名画としての価値を持つ。
それはとりもなおさず「自分の絵」を描きつづけてすぐれた境地に到達したからである。
どどいつ作句のひきあいに出すにしては、少々おこがましい例かもしれないが、絵画であれ、彫刻工芸であれ、創作芸術というものは、全て同じ原理がはたらいているのである。
たとえ、卑俗な庶民の歌といえども、文芸のはしくれとして生み出すからには、やはり「自分のウタ」でなければだめで、どんなにカッコよく見えても、人真似のウタばかり作っていると、その人の人生も人マネ人生になってしまう。
もっとも初めのうちは先輩の作をお手本にしたり、すぐれた歌の真似をしてもちっともかまわない。「まなぶ」という言葉の源は「まねぶ」だというから、初めから全く独創的なものを作ろうとしてもムリで、あまり堅く狭く考えてはならない。
しかし、心掛けとしては、たとえ一行一句一語でも、何とかして「自分のウタ」を歌おうとする姿勢というか、心構えというか、その方向へむかって字引片手でもいいから勉強していかなければいけない。そういう努力を続けているうちに必ずその日となりの「発見」にぶつかるのである。
十年以上のベテラン諸氏にこの小文の趣旨を味読し、現在の作風から前進していただきたいと願うこと切である。
そういう発見こそ、人生の発見である。
そういう歌づくりこそ、生きることそのものである。だから「たかがどどいつ」を通じて、人生が豊かになったり、物をよく見る癖がついたり、心身がすこやかになったり、長生きできたりするのである。
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その十二
* なぜ「現代どどいつ」なのか(風迅洞先生寄稿)
われわれは現代に生きている。だから「自分のウタ」を歌おうとおもえば、その背景、すくなくとも「心のバックグラウンド」は現代にならざるを得ないのは当たり前である。
短歌は古典の伝統にのっとって、文語、雅語を使っており、俳句は「や」「かな」などという現代の日常語では使わない切字を使っている。しかし、現代の歌人や俳人は、それらの「形式」を用いて、自分の歌、即ち現代の歌をうたっているのである。
現代の人たちだけではない。万葉の歌人たちも、藤原定家も、十七世紀の芭蕉も、みな自分の歌、つまり、その当時の現代のウタを歌ったのである。
だからこそ、彼等の歌が、今日に生きる古典として残ったのである。
「現代どどいつ」と言っているのは、決して現代流行語を使えとか、ファッションを歌えということではない。
いまの男女交際の実態は、既婚も未婚も含めてたいそうドライになり、夜遅く旦那の帰りの靴音を待ってため息をつく、というような女性は珍しいのではないか。
同様に、見合いの席でうつむきながら「の」と字を書くなどという図も、まず見られないであろう。わかい娘さんに「のの字かく」などときいても。、誰も知りはしない。
しかし、たしかに、何十年か昔には、そういうのがその当時の「現代風俗」であった。だが、昭和五四年の現代に、そのような題材のどどいつを作るとしたら、それは昔の人の物真似か、懐古趣味でしかない。
どどいつは、庶民の心意気を歌った即興の歌であって、単なる骨董趣味には向かないようである。本当に作者が「生きて」いれば、その歌、そのどどいつは黙っていても「現代どどいつ」になる。精神が現代にあれば、場合によっては「古語」を使っても、古典を歌ってもよいのである。
人の過剰は二百年昔も今もあまり変わってはいない。しかし、表現を「今日」の表現に変えることはできる。材料は新しいほうが、料理も美味なものがつくれる。
とくにどどいつは、花柳の社会や四畳半趣味が本命だと思われてきた。だからなおさら「仇な年増」だの「黄楊の横櫛」などという言葉は危険である。百年むも前の表現方法を現代の作家が使用する必然性は全くないからである。
昔の人が言った「仇な年増」をいま、自分が表現するには、度のような語彙を、どのように組み合わせればよいかという言葉の探検をして、発見する。その創作過程こそわれわれの言う「現代どどいつ」なのだから。
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その十三
其の三 作句技法あれこれ
* 描写はなるべく具体的に
「詩は説明ではない」とか、「抽象的・概念的・一般的でなく具体的に」とかよく言われるが、この場合の「抽象的」ということは、哲学的或いは論理学的な意味ではなく「具体性に欠ける」とす、「一般論で迫力がない」と言うほどの意味であると考える。
普通「勇気」「正義」などというのが抽象概念で、「人」「花」「家」などが具体概念だという議論もあるが、作句を主体として言えば、あまり幅広いいわゆる包括的な概念は抽象的で、単に「花がひらいて」と言うよりも「白菊一輪」と言ったほうが遥かに具体的である。
「花」た゜けのほうが「白菊」よりも広い概念であるから、読者の想像の翼をひろげる。いわゆる「余情」の波紋のひろがりが大きいと考えるのは当たらない。むしろ、「花」の連想があまりに茫漠として焦点が定まらないのに対して「白菊」と言う限定をしたがゆえに読者のイメージを刺激して、二次的な波及効果を及ぼすのである。
詩を作り、句をつくるということは、そういう巧みな限定を、如何に効果的に組合わせるかということであろう。
好きで一緒も そろそろ飽きて
浮気の言いわけ 考える
ハブラシ咥えて ついてる嘘へ
またかと見抜いた ご慧眼
この二つの作品を比較してみると、前者はどちらさまにも通じる、いわゆる一般論であり、後者はある家庭のある朝の、ある極めて具体的な行為の瞬間にぴたりと狙いを定めた作で、情景が眼に見えるようである。
初心者の作によく見られるのが
ひろった恋など きっぱり捨てて
忘れましょうよ ケセラセラ
というような調子のウタである。「ひろった恋」でも千差万別、ひろい方、出会い方にもいろいろあるであろう。どんなキッカケでひろった恋なのかがさっぱりわからないから、「きっぱり捨てる」ことが軽い気持ちなのか、辛いやせ我慢なのかがよくわからない…・・
つまり読者の心の奥にひびく迫力や切り込みがなくなってしまうのである。
風迅洞作の
きのうのところへ きょうまたいって
きのうしたこと きょうもした
は、まことに平凡な一見抽象的表現のようであるが、時間と場所と行為の特定があるので読者各自が勝手に想像・連想の波紋を広げられる作品となっている点に留意したい。
初心者は、なるべく、具体的な題材を選び、小道具・場所などはっきりさせるよう心掛けては如何であろうか
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その十四
* 比喩的表現・擬人法などの効果と注意
消した明かりに
思案がついて
夜の秘密を
生む動悸
離れの明かりが
ついては消えて
雨戸にドラマが
ゆれている
ここに言う「比喩的」というのは、「りんごのような頬」とか、「コスモスに似た女」という、いわゆる明喩(直喩)でなくて、「虹のおもいを」とか「雨戸にドラマが」というような間接的な表現のことで、こういう表現法は隠喩とか暗喩とかよばれている。
人間でないものを人間感情的にのべるのが、いうまでもなく擬人法で、これににたものに擬物法もある。
○吐息ついてる思案橋
○棄てた未練が追いすがる
などというのは擬人法で
○旦那は我が家の大黒柱
○あれでも会社じゃ生き字引
などというのは擬物法である。
どどいつ作句にこの比喩的描写を使うことによって、情感を高め、余韻・余情の波紋をひろげ、作品を盛り上げる効果があることは、だれでも知っているし、試みもしている。
その反面、少しこれにこだわり過ぎて、うたわんとする内容がよくわからなくなったり、テーマがボケてしまう表現の無理があって、読者の共感をさまたげる場合があることを注意すべきである。
霧に想いを 散らした別れ
露に未練の 恋しぐれ
この作品を見ると、各行全部、気象用語的表現で、描写そのものは情緒があって詩的であるように見えるが、幾度読んで見ても、何を言わんとしているか読者にはかいもく解からない。この作品に対し、数人の新人からこの作意を説明して暮れと手紙が来たので、投句された作者にその作意を問い合わせたところ
「別れるつもりの逢瀬の夜が、霧が深くて別れ心がボヤけて、道草も体もしぐれのような
霧つゆにしっとり濡れて、このまま別れるのが辛くなった」という回答であった。
このように、相当キャリアのある投句者に、考え過ぎというか、ひねくり過ぎというか、また、この句のように作者だけが作意を把握しているが、一般読者には何をうたわんとしているのか汲み取りにくい所謂ひとりよがりの作品を多く見うけられる現状である。
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「その十五
* 同語反復・類語・対照語
逢えばぐちだけ 逢わなきゃごてる
逢う気あるのか 逢わぬ気か
駅で芽ばえた 駅でのロマン
駅で咲かせて 駅で散る
握る手に汗 打つ手にうつろ
ガゼンうまい手 組む手解き
小さなあくびを 小さな指が
押さえて小さな 願いごと
これらはいうまでもなく同語のくりかえしである。教室の入門案内の見本になっている「恋をする馬鹿 しない馬鹿」の馬鹿という単語の反覆がリフレイン(くりかえし)の韻を踏んだ形になっているが、このような歌い込みが効果をあげることはご承知のとおりである。
漢字の人名でも折込みができるという見本に作られた珍品をひとつご紹介してこの項を終わる。(柴田明子の冠音で)
柴は刈ったし 田の草とった
明日を夢見る 子の寝顔
* あて字・あて読み・振仮名……・省略
―主旨は「作句にあたってなるべく正しい言葉・正しい文字・正しい読み方等で表現するよう心掛けたい」―
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その十六
* 作句法のいろいろ
□ 起句の折込み音の言葉から始まり、順次、承句・転句・結句へと、各行の意味がつながるよう作句する。
□ 折込み音のうち、最も言葉の少ない行句を先ず作り、ついで前後句を作る。特に結句の折込み音の言葉が少ない場合は、先ず結句を先に作るのが常識である。この場合出来た結句に転句をのせて、まず後半を作句して、これに起・承句を作句する場合と、結句が出来たら起句から順にこれにつながるように作句する場合とがある。
□ テーマ(題材)をきめて作句する場合
○ニュースのロッキード事件を作句する。
○ 秋をテーマにして見よう
○ 家族に関するもの
○ 男女の心のあやを題材にうたってみよう 等々
□ 着想を決めて作句する
○ 風刺(皮肉)たっぷりのうたいぶり
○ おかしみのある作品
○ 情緒てんめんの色気のある表現描写
○ 人を食ったような野次馬的作風
○ 今まで誰も使ったことのないような言葉を入れて作句する
○ 遊びどどいつを試みてみよう 等々
* 作句のタイプ
投句者各人の持つ、才能、性格・感覚、いいかえれば各人の持つ人間感覚が、作品の上に出るものである。
○ きょうは宿題を作ろうと、机の前に座るタイプ。反対に家事をしながら、街を歩き乗り物の中で、ふと浮かんだ着想をもとにして作るタイプ。
○ 作句時間短く、出来たものに手を加えないで、宿題の数だけできたら投函するもの。最初にできた宿題を各句共、言葉の選択、仮名づかい、「てにおは」等を徹底的に吟味して、ひねくりまわさないと気がすまない努力型。
○ 投句の数だけ作るのに精一杯の人。15も20句も出来てどれを投句しようかと毎月迷っている人。
○ これはタイプといえるかどうかわからないが、機関誌が到着して次ぎの宿題がわかると、二日か、三日で投句してくるものがかなりある。〆切日までに宿題が到着する順番が、毎月ほぼおなじであることも不思議であるし、〆切日ギリギリに届くもの。〆切後に二日乃至、四日後に何通か届く、各人の気質というか、感覚というか大変面白いものである。
* 結び・・・・…………省略
* 案内と奥付・……・省略
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「お疲れ様かのう?またおいでなされや」
かいげんじじい
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「お勉強できましたか?
ずっといてもいいんですけどね、お帰りはこちらです」・・とことこ
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