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気まぐれ師匠のどどいつ講釈
かいげんじ
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始めに オッホン
私がひとまずっていうかとりあえずっていうか師匠です
「講釈師、見てきたような嘘を言い」というわけで全くの私観でありますのでみなさまそのおつもりでお読み下さい。
・・・・・(はい、わかりました・・・弟子)
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講釈その1 基本形
どどいつの基本形は、七、七、七、五、の二十六文字です。
「孫」という歌が流行っていますね。歌いだしの二句をお借りして「どどいつ」を作って見ましょう。
何でこんなに 可愛いのかと 孫抱く爺の 恵比須顔
何でこんなに 可愛いのかと はた迷惑に 爺はしゃぎ
同じ素材を取り上げても、前者は暖かい眼差し、後者はちょっと皮肉な眼差しで事象を捉えています。しかし、どちらがより「どどいつ」らしいかといえばこれは後者です。まず「孫」という直接の言葉が入っていません。七七七五の中でわかる人にはわかるというのが面白いところです。内容的には皮肉っぽくても、その事象を自分に置き換えたらやっぱりそうなるんだろうなという大きな視点での理解があります。
「どどいつ」としての出来不出来とは無関係ですので念の為。・・・・(はい、わかり・・・・弟子)
臨時受付:お気に召した方はトップから「どどいつなんぞはいかがでしょう」のヤフー掲示板へ飛べますよ。もちろん自転車でも歩きでもいいんですよ。え?迎えに来い?そんな・・。
では「講釈その2」です
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講釈その2 五字冠り
どどいつの基本形は七、七、七、五の二十六文字です。その上に五をのせた五、七、七、七、五の三十一文字も 歌われ作られいてます。
あの人の どこがいいかと 尋ねる人に どこが悪いと 問い返す 古典
このような三十一文字のパターンを「五字冠り」と称しています。三十一文字ですから、ちょっとひねくり回すとすぐ短歌に早変わりします。
あの人の どこが悪いと 問い返す どこがいいかと 尋ねる人に 短歌風
てな具合ですが、古典どどいつの傑作も、短歌としては不出来ですね。
長い歴史の間には、この句型に一定の制限を設けた流派もあったようです。たとえば、
初句は必ず三四、で以下 四三、三四、五であらねばならないというような。
しかし、一方で、別の流派は「七、七、七、五言より成る一種の平民文学なれば決してむつかしきものにあらず」「因みに初句と第三句目の七は八でも差し支えない」としているそうですから、あまり形式にこだわる必要はないのではないかと私は感じております。
( ふむふむ・・・『あまり形式にこだわる必要はないのでは』・・・・・この部分、よくわかりました・・・弟子)
臨時受付:さあ、あなた、自由にやってみましょうか?え?まだ?じゃ、講釈その3をどうぞ。
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どどいつ講釈その3 どどいつは歌詞
どどいつは、メロディーにのせてうたう歌謡としての歴史が長く、「詩」としての歴史は明治以降なのだそうです。だから古典は殆どが読み人知らず、作者不明なんですね。黒岩涙香さんも、どどいつ本来の目的であった「声に出して唄う」ことを勧めています。節はこの際何でも良いのだそうです。
民謡でも歌謡曲でも、勿論三味線にのせて小唄調でも。自分が一番好きな歌のメロディーにあわせて口ずさみ、調子が合っていればどどいつは完成品です。例えばこのふたつまさにどどいつです。
秋の夜寒に 針の手止めて 主の安否を 思い出す 新相馬2番
逢えばなつかし 語るも夢さ 誰が弾くやら 明烏 お富さん4番
さあ、皆さんも自作どどいつを「お富さん」のメロディーにのせて歌ってみましょう
(さあ、たって・・・お富さん?・・・弟子)
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どどいつ講釈その4 「どどいつらしさ」について
例えば
私ゃ春雨 ぬしゃ野の花よ ぬれるたびごと 色を増す 古典
というちょっと艶っぽい古典名作。これを次ぎのように改作したらどうなるでしょう。
わたしは春の雨、あなたは野の花よ、ぬれるたびごとに 色を増す
なんだか作文みたいで「どどいつらしさ」が一気に失われますね。
実は、この「どどいつらしさ」「どどいつっぽさ」にはとても大切なテーマが含まれていると思うのです。講釈3でも触れましたが、どどいつは元々歌詞なんですね。三味線に載せて芸者さんや通人が唄ったり、あるいは民謡という形式で日本全国いたるところで歌い継がれたり、それが短詩として、ある種芸術性を主張し始めたのは明治の御世からなわけです。
短歌や俳句、新体詩の世界では形式を打破することでより芸術性を高めるという試みがなされてきたように思いますがどどいつはそこまで踏み込んではいないのですね。例えば和歌から短歌への変身、山頭火の俳句、七五調の文語形から口語の自由詩のような変化はどどいつの世界では起きていないのです。せいぜい初句の四三、三四の拘りをなくしたという程度です。
結果としてどどいつは俗っぽさと、ある種の近寄りがたさをたっぷり残したまま、今日に至っているわけですが、一方で日本語が持つ韻律、リズムのよさがそのまま残されたという利点もあったわけです。
要は韻律を尊重しつづけるか、もっと自由に情景や、心情をよりストレートに訴える方法をとるべきなのかというテーマであります。わたくしの立場はは今の所、どどいつで大切なのは韻律、リズムであると言うものですから、できるだけ七七七五に近づける形で作句していこうと思っています。
(はい、そんじゃ、弟子もそう致します・・・聞き分けがいい弟子)
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どどいつ講釈その5 現代どどいつ
私の私淑する中道風迅洞氏は著書の中でこう言っています。
「三味線音楽と脂粉の香りにつつまれて育った二十六字詩が、口語庶民詩という一分野としての市民権を得るまでには、その詩をつくり歌うその道の仲間だけがりきんでみてもだめであって、一般の市民、会社勤めのサラリーマンや八百屋の隣の奥さん方にある程度「現代どどいつ」というものをわかってもらう必要がある」
私も、中道風迅洞氏のいう一般の市民、会社勤めのサラリーマンの一人であります。たまたま、トピを立ち上げたことで、より多くの方に「どどいつ」というものを知っていただく、興味や関心を持っていただく、という役割をほんの少しでも担うことが出来ているとしたら、私にとって望外の喜びというものです。
そのような立場ですので作品の優劣を判断、評価することはできません。それに「ここをこう直せばもっと良くなるよ」という基準があまりにも少なすぎるのであります。
ただ、正しく韻をふんで、作者の想いがストンと胸に落ちるような作品は全て素晴らしいと思いますし、ちょっと考えた後、「ああそういう意味だったのか」と笑みが湧くような作品は、上手だなという感想をもちます。
たとえば、とことこさんの作品、
いちにちでいい はたちになって 別れを告げたい ひとがいる とことこ
これは、私の基準では「素晴らしい」一句です。この、二十六字から伝わってくる「思いは」とことこさんご自身の大切な「思い」でありながら、読んだ人が誰でも頷く事が出きる千古不滅の真実があります。
どどいつは様様な事象や、思いを二十六字にまとめるテクニックより、それらを見て、あるいは体験して、はたまた想像して、どう思ったのかという感じ方、または見方の多彩さがいかに凝縮されているかの方が読む人の心に強く訴えるのでは無いかと思っています。
(ほめられちゃった・・まごまど・とことこ)
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どどいつ講釈6 歴史のようなもの
『昔より日本に三大詩形あり。其一は五七五、七七の三十一文字式なり之を和歌と云ふ。其二は五七五の十七文字式なり、之を俳句と云ふ。其三は七七七五の二十六文字式なり、これを関東にては「どどいつ」と言ひ、関西にては「ヨシ此」と言ふ。猶ほ各地各様の称呼あるべし、其の何の意たるを知らざるも、要するに日本に固有なる、且つ最も普及せる俚謡なり。』で始まる趣意書を著した黒岩涙香は、どどいつを創作二十六字詩と位置付け、それまで半ば蔑みの目で見られていた室内情歌からの脱皮をはかりました。それによって、従来は三四で始まることを条件としていた第一句の七文字が、四三でも、四四でも自由になっていきます。
三大詩形と 誉めらりゃ照れる 俗だからこそ 味もある かいげんじ
どどいつの呼び名を変えようと試みた人は多く、上の黒岩さんの俚謡だけでなく平山芦江は街歌(がいか、まちうた)を提唱し、また別の人は国謡(こくよう)を推し進めようとしたそうですが結局定着はせず今日に至るということのようです。結果としてどどいつを詠む人に対して歌人、俳人、のような名称は生まれなかったと言うことになるのでしょう。
(そうですか・・・どど人でなくて良かったです)
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どどいつ講釈7 海外の評価
日本では、どどいつは、和歌、俳句より一段下の俗なものと見られてきました。
ところが、ラフカディオ・ハーンやジョルジュ・ボノーなど海外の文学者、詩人達はどどいつに対する評価が非常に高いのです。
昭和10年秋、ジョルジュ・ボノーの同年6月の講演が「日本詩歌と外国語」というタイトルで翻訳出版されました。この要旨は、日本詩歌の日本及び人類的な価値を世界の人々が誤って認識しているということです。
ジョルジュ・ボノーいわく、「この問題に関する西欧人の過誤は、最初から俳諧=日本詩歌という等式を立てた点にあるのであります。…その結果は一挙にして都都逸、短歌及び新体詩と、日本抒情詩の全分野の四分の三を消し去る結果になったのであります」
とまあ、どどいつが少なくとも日本抒情詩の四分の一は占めていると評価してくれているのは嬉しいことじやありませんか。
(はい、弟子どもも嬉しいです。・・あまりピンときてません)
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(注) 以上の講釈1−7は、専門的な部分の多くを、私の日頃愛読しております、「どどいつ入門」「どどいつ万葉集」(ともに、中道風迅洞先生の著書)からの孫引きでご説明させて頂きました。もし説明に間違いがあればそれは私の理解力不足と説明の拙さによるもので、両書の責任の及ぶところではございませんので、宜しくご了承下さい。
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終わりに 甲斐源氏(気まぐれ師匠)
俵万智さんのサラダ記念日が多くの人々に、短歌に対する興味と関心の目を見開かせました。一見型破りで稚拙なように見えても、その句は、内包する人間の様様な想いや情を表現しています。
人に伝えることのできる素晴らしさ、しかも、それは日本人の根底に染み付いている、日本語の韻律の素晴らしさをも伴っています。
「どどいつ」もまたいつか、そのような形で見なおされる日が必ずくることでしょう。
挿した柳が ついたじゃないか 想うて届かぬ ことはない 古典
(お疲れ様でした)
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