風流花圃
ふうりゅう かほ(はなぞの)
yahoo「どどいつなんぞはいかがでしょう」に甲斐源氏さま(トピ主)が紹介して下さったので載せました(とことこ)
東都々逸 風流花圃 明治二十二年十二月刊
蜃気楼主人岸上操著 東京春陽堂発行
中道風迅洞編 続・生きている七七七五より
(孫引きご紹介)
「都々逸は新作をうたふべき事」
さても 今申す通り都々逸は当世のもの。当世物が今様にて今は昔でないと知ったら、昔の唄を今うたふはあんまり智恵のない所のこんでも、ひョット世間に聞こえたときには時好おくれの沙汰なるべし。
さればかの梅暮里連のものしたる花唄一夕話といふ書物に都々逸のことをのべしうちにも、きのふうたひしも今日は古き流行あたかも稲妻の如けんとは説きたり。
実にや一年三百六十五日松の内のお座付けから明けッぱなしの夏の座敷角のとれたる月見舟つもる話しの雪の夜の離れ座敷のちんちんかもかも鍋お酌か姐さんになるまでも一つ都々逸ばかりをうたはば折角粋などどいつぶしもはては愛想をつかされていかなる憂目を見ようともしれず、それをふびんと思はん人はなんでも新規な文句を作り四季折々の景色は勿論その座その場の調子にあはせおもしろおかしく新しくしぶくあッさりこうとでいきで五分もすかない出たらめをうたふて聞かせて頂戴ナ。
ちょっと読み辛いですね。 (かいげんじ)
ちょっとどころじゃないですわ。(とことこ)
「都々逸は誰にても作らるる事」
都々逸を作るをさも六ヶ敷ものの様に心得たる人あれども元都々逸といふものは常にいふ所の言葉をもて目に見心に思ふままをのべこれをうたふて三味線に合はするまでのことなれば、別に六ヶ敷言葉を覚ゆるにも及ばず、又学問のいるわけにもあらず作らんと思ふこころさえあれば誰にも作り得らるるものなり。
仮令ば花が咲いたことは花が咲いたといひ逢ひたひことは逢ひたひといふだけにして耳遠き言葉などはかへってつかはぬ方がよし。
されど語路がわるけりゃ調子が合はず調子が合はねば三味線にのらず、三味線にのらねば唄とはいはれず、唄といはれる上からには調子もあふた三味線の駒に乗るのが専一なれど、古きになづまず新しくおもしろいのをたてにしていきすぎもせずやぼでもなく程のよいのが何よりなるべし。
「姿言葉の事」
前にも言いたる如く都々逸に用うる言葉とてべつにあるわけにもあらねば、上はやさしく美しき大和詞より下りてはところところの方言(さとことば)まで口にいふほどの言葉なれば用いられぬといふはなけれど余りに古く堅苦しき詞をつかへば唄の姿も頑固(かたくな)になり昔気質のやかまし屋がしらふで登楼したやうにまるで似つかぬのみならず、言葉のこころも何のことやら分からぬ人が多かるべし。
去りとてあまりに下卑た言葉やみだりがましき言葉をつかふも片田舎の盆踊りめきて随分見苦しかるべければ「意気ではすはでしゃんとした吾妻男の姿に似た唄をつくるを心がくべし」されどまたただ綺麗なる言葉をならべ花やかなる句をつかふも肝心の唄の心に気を用いず生人形の美しきもたましいなければ動かぬ如く真の唄とはいはれざるべし。
紹介おわり