この文章は、『週刊東洋経済』の「ハーフタイム」欄に連載した「男と女の経済学」のうちファイルが残っているものを再録したものです。

 

バツイチもお宝の時代に?

 平成八年の人口動態統計速報では、出生数がかろうじて一二○万人台を回復した。ところが離婚件数の方は二○万七千件と、統計史上最高を更新し続けており、「家族の危機」を訴える声は一向に衰えていない。しかし、離婚の増加は本当に危機なのだろうか。

 労働市場の場合、離職者が増加して、その人たちが再就職できないようなら問題だが、成長産業への再就職が円滑に進むのであれば、むしろ経済を活性化させるためプラスの効果を持つ。 

 そこで、人口動態統計の確報を使って、女子離別者の再婚件数を離婚件数で割り、「再婚確率」を計算してみると、平成七年は六五%と前年より一ポイントの増加。十年前の昭和五九年の再婚確率は六一%だったから、再婚確率は着実に高まってきているのだ。

 また、より興味深いのは年齢別の再婚確率だ。

 二○歳台の再婚確率が減少傾向なのに対して、三○歳台以上の再婚確率は大幅に上昇している。特に四○歳台前半は、昭和五九年の三六%から平成七年の五六%へと、実に二○ポイントもの大幅上昇なのである。

 中高年層においても、「貞女は二夫にまみえず」という倫理観が薄れつつあるのだろうが、実は人口動態統計から、もうひとつ興味深い数字を導くことができる。離婚から再婚に至るまでの平均年数である。

 若い層はあまり変化していないのだが、四○歳台前半女性の再婚までの平均期間は、昭和五九年の三・五年から、平成六年は四・八年、平成七年は五・○年と大幅に延びてきている。つまり、中高年の再婚が増えたと言っても、離婚してからすぐに結婚するのではなく、じっくりと新しいパートナーを見極めた上で再婚に踏み切っているのだ。

 古くなったモノには、二つの運命がある。中古品としてたたき売られるか、アンティークとして毎年価値を増していくかである。中古車扱いされれば、八年落ちで査定はゼロだが、クラッシックカーとみなされれば、値段は下がらない。

 最近の中高年の再婚ブームは、結婚市場が中古品市場から、古美術品市場に変化したことに支えられているのではないだろうか。じっくり待っても買い手がつく。だから、たたき売りの必要はない。実際、離婚した途端にモテモテになったという女性はたくさんいるし、女友達からは「離婚できてよかったね」という反応が多く返ってくるそうだ。

 お宝ブームの行く末は、「開運人間鑑定団」なんていうテレビ番組が始まることになるのかもしれない。

 

 

地域イメージ向上には恋愛の訓練が必要?

 ライフデザイン研究所の田中美子主任研究員が「イメージ・ダイナミクス・モデル」というのを提唱している。地域イメージがどのように形成され、住民に根づいていくのかを解明するための理論モデルだ。実際のモデルはかなり複雑だが、簡単に言うと、その内容はこんな感じになる。

 まず、「地域の実態」のなかから、いくつかの情報が選択され、「地域イメージ」が形成される。ところが地域イメージは脆弱で、簡単に形成されることもある一方で、一夜にして瓦解することもある。オリンピックで金メダルを取っていきなりヒーローとなった選手が、薬物使用が発覚して、一瞬でその地位を失うようなものだ。

 ところが、地域イメージが心に深く根づくと、それは「地域アイデンティティ」に昇華する。このアイデンティティには、地域イメージのような脆弱性はない。

 この点で面白いのは、田中氏が「地域のイメージ・ダイナミクス」という著書で発表した網走市での実験結果だ。

 網走市民のなかでは、最も多くの住民が、自分のまちを「流氷のまち」だと思っていた。ところが、他地域の人々は、当然のごとく「刑務所」のまちだと思っている。そこで網走市民に「よそでは刑務所のまちだと思われてますよ」という結果をみせるのである。

 そうすると、多くの市民が「やっぱり刑務所なんだ」と思ってしまう。イメージの脆弱性である。

 ところが、いくら刑務所だと言われても、「絶対に流氷のまちだ」と譲らない市民も多くいた。彼らの中では流氷というアイデンティティが確立しているのだ。

 実は、こうした構造は恋愛でも全く同じだ。「惚れてしまえば、あばたもえくぼ」。スタンダールが『恋愛論』のなかで結晶化作用と呼んだこの効果は、恋に落ちると他人が何と言おうと我が道を行く「アイデンティティ」のことである。

 また、田中氏は、一度地域アイデンティティが確立すると、地域の実態を改善しようとするフィードバックが発生すると主張している。

 この点も、恋をすると、服装に気を使ったり、エステに通ったりして、今まで以上に、きれいになろうとするのと同じ構造だ。

 こうした点を踏まえると、まちづくりを担当する地方自治体の職員にまず必要なことは、新しいまちの絵を描くより先に、恋愛の技術と構造を勉強することになるのかもしれない。

 

 

嫁さん欲しけりゃこっちへおいで

 非婚者の増加が話題を集めている。非婚というと、経済的に力をつけた女性が、「もう結婚なんて必要ないワ」などと胸を張って歩く姿がどうしてもイメージとして浮かんでしまうが、統計でみると非婚化が進んでいるのは圧倒的に男性の方なのである。

 平成七年の国勢調査でみると、三○歳台前半男性の非婚率は三九・六%、ほぼ四割の男性が独身になっている。しかも都道府県別にみると、非婚率が最も高い東京都の場合は、五一・七%と、なんと過半数にまで達しているのだ。

 昔は、三○歳台前半の男性には、「お子さんは何人いらっしゃるんですか」などと聞くのが常識だったが、東京都では既に「ご結婚の予定は?」と聞かなければならなくなっている。

 男性がこれだけ非婚状態でいるのに、三○歳台前半女性の非婚率は全国で二三・六%、東京都でも三五・○%に過ぎない。女性の方は、結婚できない男性を尻目に、しっかり配偶者をゲットしているのだ。

 しかも、女性の離別者や死別者は、男性の二倍以上多いから、未婚者同士で結婚しようと思うと、女性不足は一層深刻化する。

 男性の未婚者数を女性の未婚者数で除したものを有効求婚倍率と呼ぶことにすると、三○歳台前半の有効求婚倍率は一・九四。ほとんど娘一人に婿二人状態だ。しかも、この状態はじっと我慢していれば改善するという性格のものではなく、逆に四○歳台前半になると二・四六と一層悪化する。(もちろん女性にとっては、悪化ではない)。

 結婚願望を持つ男性にとって、まさに受難の時代が訪れたわけだが、対策が全くないわけではない。三○歳台前半の有効求婚倍率は都道府県によって大きな違いがあるからだ。

 求婚倍率は、最も高い茨城県の二・七四倍に対して、最も低い北海道は一・三五倍。格差は二倍以上に達している。

 男性にとって有利な求婚倍率の低い県には、北海道に続いて、福岡、熊本、長崎、宮崎、大分、鹿児島と九州各県がズラリと並ぶ。

 過疎に悩む市町村を多く抱える北海道や九州にとって、こうした求婚倍率の低さは、新たなUターン、Iターン募集の切り札になるのではないだろうか。

 いっそのこと、Uターン、Iターン募集の北海道・・九州共同キャンペーンなどというのも効果的かもしれない。テレビや雑誌にキャッチフレーズを流すのだ。

「嫁さんほしけりゃ、こっちへおいで!」

 

 

東京市場復活のカギは悪女の手法?

 経済構造改革の取り組みが本格化してきた。様々な規制を緩和し、国内の高コスト構造を是正することによって、再び日本の市場の魅力度を高めようというのが、経済構造改革の基本的な目的だろう。

 その必要性は、急テンポで改革が進められようとしている金融市場をみても明らかだ。東証に株式上場する外国企業は九一年末には一二七社だったが、九六年末には六七社へと半減している。外国株の売買金額にいたっては、東京市場はロンドン市場の一二○○分の一でしかなくなってしまった。

 東京市場をロンドン、ニューヨークと並ぶ世界の「ハブ」として復活させるためには何より東京市場の魅力を高めなければならないということに異論を挟む人はほとんどいないだろう。

 ところで、ハブと言って思い起こされるのは「悪女」である。彼女たちの恋愛市場のなかでの位置づけは、紛れもなく「ハブ」だからだ。しかも、一度ハブとして認知されると、ヒトもモノもカネも集まってくるのも経済のハブ機能と同じだ。

 ところが、魅力的な女性が全員悪女になっているのかと言えば決してそうではない。悪女には魅力と同時にキャパシティが必要なのである。例えば、同時に三○人もの男性を虜にし続け、下着以外で身につけるモノは全て貢ぎ物と豪語するある悪女は、どの相手と会うときにも必ずその相手からの貢ぎ物で全身を飾る。話題も、前回会ったときからの連続性を確保し、間違っても他の男と会ったときの記憶が混じったりはしない。

 普通は、そこまでできないから、せいぜい本命とキープの二人を相手にするにとどまってしまう。つまりキャパシティが小さいのだ。

 その視点で経済考えると、東京市場のキャパシティは、決して大きくない。少なくともヒトの流れで見ると、成田空港の年間発着能力はロンドンヒースロー空港の三分の一しかないのだ。これではいくら東京が魅力的になっても、海外から来たいヒトが来たいときに来られない。

 羽田空港の深夜・早朝枠の利用でも首都圏第三空港でもよいから、経済構造改革の進展に合わせて、キャパシティの増加にも取り組まなくてはいけないのではないだろうか。

 もっとも、キャパシティだけあって魅力はちっともないという事態は、一番悲惨だ。東京が立派な悪女に変身できるかどうかは、魅力とキャパシティの同時増加が可能かどうかにかかっている。

 

 

再婚可能は三五歳まで!?

 再来年に予定される公的年金の財政再計算の際には、大きな制度改革が避けられないと言われている。少子化が一層進み、老齢年金の給付と負担のバランスが崩れるからだが、実は公的年金は老齢年金の機能とともに、生命保険的な機能も併せ持っている。

 遺族給付や障害給付がそれに当たるが、この部分の仕組みには、制度設計者の結婚観が垣間見えて面白い。例えば、国民年金の加入者が亡くなった場合、遺族基礎年金が支給されるが、配偶者でそれを受給できるのは、一八歳未満の子のいる妻ということになっている。つまり、子どもがいなかったり、子どもが一八歳以上になってしまうと遺族基礎年金は支給されないのだ。

 それではあまりに可哀相だというのか、夫の死亡時に三五歳以上だった子のない妻や、子が十八歳になった時点で三五歳以上の妻に対しては、四○歳から六五歳になるまでの間、月額五万円弱の中高年加算が支払われる。

 夫が死亡した時、あるいは遺された子の養育を終えた時に、三五歳以上だと年金が支給されるという仕組みは、女性が一人に戻ったときに、三五歳まではやり直しが可能だが、それ以上だと難しいと判断されたためにできたのだろう。

 しかし、女性死別者の再婚確率をみると、三○歳台前半の○・○%に対して、後半は○・○%でほとんど差はない。三五歳というのはそれほど合理的な根拠ではなさそうだ。

 もう一つの問題は、同じ被扶養者であっても、専業主夫をしていた男性には、遺族基礎年金がまったく支給されないということだ。ライフタイルの選択に関して、明確な男女不平等が年金制度に存在しているのだ。

 年金制度の複雑化を防ぎ、ライフスタイルの選択に中立であるために、最も良い方法は、男女それぞれが自分で保険料を支払って、自分の年金だけを貰う方式にすることなのではないだろうか。むろん収入のない専業主婦(主夫)は保険料を払えない。しかしそれは、家庭内で主婦や主夫への給与の支払いを認めてやれば解決する。

 そうなれば、プロポーズの言葉も、「年俸五○○万円で、結婚してください」というように変わる。むろん、年俸は毎年更改だ。そうなると、夫婦の会話はこんな風に変わるだろう。

「あれ?今日の晩飯、用意していないの?」

「何言ってんのよ。今ストライキ中だって言ったでしょ」。

 

 

ラフレターを書こう!

 経営者にはオカルトにはまっている人が多い。“気”や風水まで含めれば、私の知る限りでは過半数の経営者がそうしている。

 その原因ははっきりしている。経営者ほど孤独と不安を抱える人種はいないからだ。若いうちは、「あの部長がアホだから、仕事がうまく行かないんだ」などと同僚と連帯感を強めることもできるが、出世の階段を昇るたびに味方の数は少なくなっていく。また、真面目な経営者であるほど、「明日も従業員と家族の生活を守っていけるだろうか」という不安にかられる。そうした孤独や不安を癒してくれるのが、人知を超えた神秘の力なのである。

 ところがオカルト信奉ほどの数はいないものの、別の方法で不安を紛らせている経営者たちも多く存在する。異性信奉である。

 経営不振に陥ったある経営者は、愛人の清算を迫る債権者たちにこう言ったそうだ。

「俺が会社をここまで大きくしたのは、この生活をしたいからだ。もし、愛人を捨てろと言うなら、会社を続ける必要などない」。

 そこまで豪傑でなくとも、「課長島耕作」のように常に励まし続け、度重なるピンチを救ってくれる恋人たちがいれば、オカルト信奉の必要はない。ところが問題なのは、そんな素敵な恋人はそう簡単には現れないということである。

 八月に「オジサンたちの恋文」という本が出版された。編者は「四○○字で相手をその気にさせる同好会」ということになっているが、執筆の中心は関西の若手経営者たちである。

 「意中のオンナ」に四○○字で恋文を書いてみよう、という発想はそれほど突飛なものではないが、手紙を実際に出してしまって、返事を含めて本にするというのは、いかにも関西人の発想だ。さわりだけご紹介しよう。

「企画書 背景:今日までは霞のかかっていた君。何もかもが観えた今、全力をあげてアタックします。」以下、目的、目標、戦略、と企画書スタイルの恋文が続いて、結論部分はこう結ばれている。

「そして悟ったことは−君をものにするには、立派な人物となってのみ可能だということ。君がそれに値する女性だということ。合掌」

 この恋文にマドンナから送られてきた返事は、次のようにしたためられていた。

「全面的に企画変更のうえ、再提出願います。」

 

 

女性には学歴社会が必要?

 今年の国民生活白書は女性就業がメインテーマとなった。白書の四一回の歴史のなかで女性だけにテーマを絞ったのは今回が初めてだが、人口問題審議会を始め、最近は女性就業を取り上げるのがちょっとしたブームになっている。労働力人口の減少を目前に控えて、「困ったときの女性頼み」というのは、家庭でも経済でも同じなのかもしれない。

 白書のなかで一番興味をひかれるのは、学歴別の労働力率の国際比較だ。小・中学校卒の場合、日本女性の労働力率は、米、独、仏女性の労働力率を上回っている。ところが、高学歴の場合、この関係は完全に逆転するのだ。

 例えば、大卒女性の場合、日本の労働力率は六三%に過ぎないのに、米、独、仏の女性は八割を超えている。日本女性の労働力率が低いことの大きな原因が、高学歴女性が労働市場から引退してしまうことにあったのだ。

 昨年から女性の大学進学率は短大進学率を上回っているが、こうした状況が続けば、いくら高学歴女性の供給が増えていっても、労働力の増加に結びつかない。

 白書の推計によると、女性が大学に進学することによって得られる収益率は一一・四%で、男性の八・八%を大きく上回っている。この低金利の時代に、二桁の利回りが得られる商品はないから、女性の大学進学は、中途退職さえしなければ、極めて魅力的な投資物件になっていることは間違いない。

 ところが、それだけの高利回りを放棄して、結婚や出産を機に労働市場をリタイアしてしまう女性は後を絶たない。

 労働省の日本的雇用制度アンケート調査では、「大卒女子正社員が結婚や出産に伴って、あるいはある一定の年齢になったら退職する慣行がありますか」という質問に対して、「そのような慣行がある」と答えた企業は二・○%に過ぎなかったが、「そのような慣行はないが、実際にそうする人の割合は高い」と答えた企業は七○・四%に達している。

 目に見えない圧力をかけて辞めさせようとする企業と、専業主婦に憧れる女性の両方に原因はあるのだろうが、こと大卒女性に関しては、専業主婦に引きこもってしまうことには問題がある。例えば国立大学の場合、教育経費の七割は税金で賄われているからである。

 国民の税金で、高い収入を得る能力を得た以上、それを生かして働き、納税する義務が、少なくとも平均としてはあるだろう。その意味では、女性には今より強い「学歴社会」が必要だと言えるのかもしれない。

 

 

東京モーターショーのもう一つの戦い

 二年ぶりの東京モーターショーが幕張メッセで十一月五日まで開かれた。今回は「環境」がメインテーマで、各社とも環境問題に配慮した新型車を投入し、技術開発の成果を競い合った。

 販売不振に悩む自動車業界にとっては、環境対応による新たな需要喚起という期待もあるのだろうが、バブル崩壊後に誓ったモデルチェンジサイクルの長期化などすっかり忘れさせてしまうほど、メーカー間の開発競争は熾烈だった。

 しかし、東京モーターショーで繰り広げられたのは、自動車会社間の戦いだけではない。実は、もう一つの大きな戦いがあった。それは、イベントコンパニオンとその写真をものにしようとするカメラ小僧たちの戦いである。

 モーターショーに参加することはイベントコンパニオンにとって最高のステイタスになっている。だから、最高級のイベントコンパニオンと最大数の追っかけが、東京モーターショーには集まるのだ。

 特に最終日、閉幕間際には、各ブースでコンパニオン総出演のグランドフィナーレが行われる。この時間帯に、車をみている入場者はほとんどいない。

 音楽が鳴り響き、銀色の紙吹雪が舞うなかで、コンパニオン達はこみ上げるものを押さえながら、最後の笑顔を作り、大きく手を振る。そして、クライマックスはコンパニオン一人一人の挨拶だ。

 オーロラビジョンに花束を持つ彼女のアップが映し出される。「ウォー」という歓声、フラッシュの嵐。そのなかで彼女は涙声でこう言う。

「みなさんのおかげでここまでやってこられました。この2週間私は本当に幸せでした・・・。うぇーん。」

 コンパニオンに聞くと、会期中にカメラ小僧が撮った写真を貰うことはあるそうだが、いくら問われても、住所や電話番号を教えてはいけない決まりになっているのだそうだ。

 そうなるとカメラ小僧たちは、実現可能性のないバーチャル恋愛に夢中になっていることになる。恋愛のあり方は個人の自由だから、人に迷惑をかけなければどのような形でも構わないのだが、個人的には、どうして実現可能性のある相手を選ばないのか、かなり不思議だ。

 もっとも、客観的に見れば、イベントコンパニオンに群がって写真を撮り続けるカメラ小僧たちよりも、そのカメラ小僧の写真を撮りに、わざわざ幕張まで出かけていく私の方が、よほど異常なのかもしれない。

 

 

生殖本能に踏み込んだたまごっち

 社会現象にまでなったたまごっちブームもようやく一段落した。

 そのせいかどうか十一月二三日の新聞各紙に、「発売一周年。みなさまありがとうございます」というカラーの全面広告が掲載された。発売元のバンダイは、入手できなくてこめんなさいというお詫び広告以外に、たまごっちの宣伝をこれまで一切してこなかったから、広告が出されただけでも画期的な変化だが、この広告はただのたまごっちのPRではなかった。

 広告のメインは「たまごっちブリードタイプ、オスっち、メスっち、セットでプレゼント」だった。しかもオスっち・メスっちが何者かという説明は全くない。

 実はオスっち・メスっちとは、夏にサンプル販売され、現在マニアの間では三万円以上の高値で取り引きされている新しいタイプのたまごっちなのだ。

 オスっち・メスっちと普通のたまごっちとも違いは、オスとメスをそれぞれ大人になるまで育てた後で、ゲーム機同士を接続すると、相性が良ければ子供が産まれるという新しい遊び方にある。

 たまごっちヒットの最大の原因は、少子化のなかで人間の持つ「子育て本能」を刺激したことにあると言われる。現実にブームのピークの時にも、子育て期にある専業主婦たちは、ほとんどたまごっちで遊んでいなかった。ゲームで遊ぶまでもなく、本物の子供で欲求が満たされてしまうからだ。

 オスっち・メスっちの画期的なことは、この子育て本能だけでなく、生殖本能をゲームに取り込んだことにある。

 年末とされる発売日やオスっち・メスっちの機能を広告のなかで一切明らかにしなかったことも、魅力的であるためにはミステリアスでなければならないという恋愛のオキテをしっかりおさえている。

 オスっち・メスっちのもう一つ注目点は、ゲームのやり方や今後 の商品開発に発展性があることだ。

 例えば、オジサンたちが、自分のオスっちを抱えてあちこちのメスっちに自分の遺伝子をばらまくというのも、本能の充足という意味では面白い。もっともこれは、新たに「たまごっちセクハラ」をまねきかねない。

 むしろ若い女性向けに、キムタク型オスっちとかソリマチ型オスっちという限定モノを売り出す方がヒットに結びつくかもしれない。

 ただ一つ問題なのは、生殖本能自体がすでに満たされていると、このゲームはヒットしないということだ。オスっち・メスっちがブームを再現できるかどうかは、日本人が生殖本能をどれだけ満足させているのかにかかっている。

 

 

自営業者増加が家族を変える?

 減少を続けてきた自営業者・家族従業者の数が下げ止まりの気配を見せている。

 就業者のなかに占める雇用者の比率は、昭和二八年の四二・四%から平成八年の八二・一%へと、戦後ほぼ一貫して高まってきた。農業就業者や商店街の小売商など生業的な自営業者が減少してきたからである。

 ところが九月までの実績でみると、平成九年の雇用者比率は八二・二%と、ほぼ前年比横這いになっているのだ。

 ただし、雇用者比率が横這いになったのは、今回が初めてではない。昭和五三年と昭和六二年にも同様の現象が発生している。しかもこの二回はいずれも直前に景気の谷を抱えているのだ。

 労働市場は景気変動に半年ほど遅れで変化することを考えると、雇用者比率も景気指標の一つとして利用できるのかもしれない。実際、不景気になると、会社を辞めざるを得なくなった従業員が田舎に帰って家業を手伝ったり、脱サラを始めたりするから、実感としても、この景気指標は使えそうだ。

 ところが、今回の雇用者比率の停滞は単なる不況に伴う循環的変動とは異なり、景気が回復したからといって再び上昇していく性格のものではないような気がする。

 相次ぐリストラで終身雇用が保障されなくなったことに加えて、大企業のほとんどが年俸制導入を予定するという労働市場の構造変化の中で、サラリーマンでいても所得や雇用が保障されないのなら、いっそのこと縛られない独立自営の方がよいと考える労働者が増えてきているのではないだろうか。

 税金や社会保険料の面でも、自営業者の方が有利なこともこの変化を後押ししている。もしかすると、二一世紀は自営業者の時代になるのかもしれない。

 しかしそうなると、家族のあり方にも大きな変化が現れるだろう。戦後の日本で主流になった終身結婚制は、夫の安定雇用が前提だった。ところが、それが崩れれば途端に離婚や不倫が増えるのだ。

 プロ野球選手や芸能人といった自営業者に、サラリーマンと比較して終身結婚の意識が薄いのは明らかだ。また、農林業就業者の比率が七割を超え、サラリーマンがほとんどいなかった明治初期には、日本の離婚率は現在のアメリカ並みに高かったという事実もある。

 もっとも、家族の変化の方は、既にこうした雇用の変化を先取りしている。バブル景気の時代に低下を続けた離婚率は、平成三年以降上昇に転じ、最近では毎年戦後最高を更新しつづけているからである。

 

 

消費回復のカギは名古屋人の研究

 金融不安が遂に消費にまで波及した。九七年十一月の小売り販売額は前年同月比四・七%減と史上最大の減少率となった。皆、お金がないわけではないのに、財布のひもをきつく締めているのだ。

 人がどれだけ消費をするのか、逆に言えばどれだけ貯蓄をするのかということに関してはこれまでも多くの研究が行われてきた。特に、所得の変動や資産価格の変動が消費にどのような影響を及ぼすのかについては計量分析も数多く存在している。

 しかし、人々の気分や国民性といったもので、どれだけ消費行動が変わるのかという点に関してはあまり分析がなされていないように思える。

 日本で最もがっちり貯蓄をしていると言われるのは名古屋の人だ。実際、平成六年の全国消費実態調査でみると、中京圏の世帯当たり金融資産額は一○四一万円で、全国の八四七万円を大きく上回るばかりか、京浜の八六五万円、京阪神の九一五万円をも上回っている。

 むろん、この金融資産額は旺盛な貯蓄意欲に裏付けられている。NHK放送文化研究所が九六年に行った全国県民意識調査によれば、「ふだんの生活はできるだけ切りつめてお金や財産を残したい」とする愛知県民は全国と比べて明らかに多い。その傾向は、中京圏の岐阜や三重でも同じだ。

 この貯蓄意欲の源泉は一体何なのだろうか。名古屋と言って真っ先に思い浮かぶのが、全国に名を馳せる派手な結婚式である。実際には、それほど利用されていないとは言うが、嫁入り道具を満載したガラス張りのトラックを連ねて新居に引っ越しをする花嫁は何度もマスコミで紹介されている。

 全国的にみても、若い女性が貯蓄をする最大の目的は結婚資金だし、その費用のかなりの部分を援助しているのはその親たちである。結婚が貯蓄の大きな目的の一つであることは間違いないだろう。

 もっとも、結婚式の派手さから言ったら名古屋よりも北陸の方が上だという意見もある。しかし、北陸三県の貯蓄額もまた、中京と同じくらい大きいのだ。

 コツコツ貯めて、結婚式でドカンと使う。国民の消費志向が名古屋型になっているのだとしたら、消費回復のカギは大きなイベントが握る。おそらく長野オリンピックかワールドカップサッカーがその役目を担うのが絶好のタイミングだが、残念ながらこれらのイベントが消費の救世主になる予兆はない。やはり、固く閉じた財布を開かせるためには、男女関係を伴う「情熱」が必要なのかもしれない。

 

 

セクハラをなくすには

 昨年十二月に労働省が「職場におけるセクシャル・ハラスメントに関する調査研究会」の報告書を発表した。労働省では、この報告書をもとに指針を作り、九九年四月から企業にセクハラ防止の指導や勧告を行うという。

 報告書には、具体的なセクハラの事例がいくつも盛り込まれているが、グレーゾーンとして「上司を含めた男性同僚がお酒の酌、デュエットを強要する」という事例が示されたことには、背筋を寒くさせた男性も多かったに違いない。

 むろんセクハラが成立するためには女性の意に反する行為であるということが前提となる。ところが、実際に女性が不快に感じるかどうかは、言動を発する男性がその女性の好みかどうかに大きく依存している。魅力的でない男性がしつこくつきまとうとセクハラと言われるが、魅力的な男性が同じことを言っても「強引なんだから」という一言で済んでしまうのだ。だから、セクハラを防止する最も良い手段は、全ての男性がスマートで魅力的になることなのだが、これは実際問題としては最も困難なことかもしれない。

 従って、現実には平均的な女性がどのように感じるのかということを基準に、男性社員の行動に一定の規制をかけていくしかないのだが、ここで困ったことは、企業がセクハラの発生に必要以上に怯えきっているということだ。

 調査研究会が行ったアンケート調査では、具体的な事例を挙げて、それぞれがセクシャル・ハラスメントの観点から問題になると思うかを企業と社員に聞いている。ところが、「問題になると思う」と答えた比率は、四六項目中、四五項目で企業が女性を上回ったのである。むろん企業がセクハラ防止に細心の注意を払うことは望ましいことだ。しかし、セクハラに怯えるあまり「もう女性社員はいらない」などと考えるようになったら、せっかく女性の職場進出が進んできたのに元も子もなくなる。

 だから、セクハラ防止にはもっと柔軟で多様な対応があってよい。

 ある出版社の社員研修の講師をしていたときのことだ。「セクハラには昇進と引き替えに関係を強要するような対価型と、ヌードポスターを掲示するような環境型があるんです。日本では環境型が多いんですが、米国では対価型も多いんですよ」という私の話に女性編集者が突然割って入った。

「森永さん。それは違います。当社はみんな対価型です」。

女性がこれだけ強くなることでも、セクハラの被害はもっと減るかもしれない。

 

 

社会調査の限界は?

 今年の元旦の朝日新聞と読売新聞は、そろって不倫に関する世論調査の結果を掲載した。そのことだけでも時代の変化を痛感するが、興味深かったのはその結果だ。

 読売新聞が「不倫はすべきではない」と七六%が回答をしたことをもとに、「見直される家族のきずな」とのタイトルをつけて報道したのと対照的に、朝日新聞の方は「不倫は許されることもある」との回答が四五%に達したことに基づいて「不倫・離婚ハードル低く」と倫理観の変化を強調している。

 現状認識が真っ向から対立した格好だが、その原因は質問の仕方にもあるようだ。読売新聞の調査は、「不倫について次の中から、1つだけあげて下さい」という素っ気ない聞き方をしているのに対して、朝日新聞の方は「あなたは、結婚している人が、配偶者以外の人と恋愛することについて、どう思いますか。どんな場合でも許されないと思いますか。許されることもあると思いますか。」と手の込んだ説明をしている。

 結果を誘導しようとする意図がそれぞれにあったかどうかは別にして、国民の意識を捉えるということが如何に困難かということを今回の世論調査は明確に示したと言えるだろう。

 社会調査の困難さを示しているのは、喫煙者率調査も同じだ。

 九七年の喫煙者率調査の結果、男性の喫煙者率は五六%で、六年連続で過去最低を記録した。ところがたばこの販売数量の方は、九六年度に三四八三億本と八年連続の増加で過去最高を記録している。

 減り続ける喫煙者率と増え続ける販売数量。この矛盾する結果は、成年人口の増加や女子の堅調な喫煙率、そして九六年度に関しては消費税引き上げ前の駆け込み需要ということでかなりの部分が説明できる。しかし、そうした要因を調整しても説明ができない部分が残ることも事実だ。

 確実な証拠はないが、喫煙者が喫煙していることを正直に回答しにくい社会環境になったということが、こうした矛盾の一因になっているのではないだろうか。

 日本人の喫煙の実態を捉えようとするときに、まず優先されるべきデータは販売数量の方である。本人が何と答えようと、実際に買われたたばこが捨てられるしまうことはまずないからだ。

 意識よりも行動の方が正確な現状を映し出すという法則は、おそらく不倫の調査にも当てはまる。ところが、オープンな市場で取引されることがない不倫はデータの取りようがない。日本人の倫理観をめぐる水掛け論は、当分続きそうだ。

 

 

財政破綻の救世主は妻のへそくり

 九八年度末の国・地方の借金残高は五二九兆円に達する。そんな見通しを大蔵省が公表した。GDPに対する比率は一○二%で、先進国のなかでは、イタリアに次いで高いという報道に触れて、「一体日本の財政はどうなってしまうのだろう」と不安になった国民も多かったに違いない。

 しかし、それほど心配はいらないのではなかろうか。

 経済企画庁の「国民経済計算」によると、国と地方を合わせた負債の額は九六年末で四八一兆円。これだけみると大変な数字だが、実は国と地方は一八三兆円もの金融資産を持っている。この分を差し引けば、ネットの負債は二九九兆円とかなり小さくなる。

 さらに、一般政府の概念には厚生年金や国民年金などの社会保障基金が含まれる。社会保障基金には、負債がほとんどなく、二二三兆円もの金融資産を持っているから、一般政府全体のネットの負債は、わずか七七兆円に過ぎないということになる。

 政府と社会保障基金を合わせてみることに疑問を感じる人もいるだろう。しかし、増税が困難なため、保険という名前を冠して福祉制度を導入する場合も多く、現実には財政と社会保険との境界はかなり曖昧だ。例えば、介護保険は社会保険だが、同じ仕組みを全て財政で賄っても何ら支障はないのだ。

 従って、一国の信用は一般政府のレベルで計られることになり、その面で日本政府は、まだまだ借金で破綻してしまったという状態にはないのだ。

 もっとも、これは家計に例えると、派手な生活の結果、借金で首が回らなくなった夫の傍らで、まじめな妻が老後のためにせっせと貯金をしてきたという状態だ。夫が妻の貯金に勝手に手をつけてよいという理屈は通らない。

 しかし、あえてそれをやれば、日本の財政再建は一夜にして完成する。つまり、年金の積立金で国債を償還して、年金の方は完全な賦課方式に移行してしまうのだ。

 現在でも社会保障基金は金融資産を増やし続けているから、完全な賦課方式に移行しても、現時点の年金給付が減ることはない。将来高齢化が進んだときに、保険料の急速な引き上げができなければ、年金給付が減っていくというだけのことだ。あるいは年金の支給開始年齢を繰り延べていっても帳尻合わせは可能だ。

 むろんこれは夢物語だ。夫に余程の魅力がない限り、妻の貯金に手を着けようとした途端、みくだり半を突きつけられて、途方に暮れるのがオチだからである。

 

 

退職金税制を温存させているのは誰だ?

 松下電器や三和総研が導入して話題を集めた退職金の前払い制度。労働力流動化時代の先進的制度として注目を集めた割には、後に続く企業がでてこない。その理由は税制だという。

 退職金にかかる所得税は、@退職金から退職所得控除を差し引いて所得を計算し、A得られた所得を二分の一に減額し、B他の所得と別にして、分離課税するという仕組みになっている。

 一方、退職金を給与に上乗せしてもらうと、一番高い限界税率がかかってくるから、所得税の負担は極めて重くなる。三和総研の場合、給与に上乗せして支給を受けると、退職時に一時金で貰うときと比べて、最大で七百万円も手取額が減少するという。これでは、新しい制度が定着するはずがない。

 労働力の円滑な移動を支援するために企業年金のポータブル化や能力再開発の支援の必要性が説かれるなかで、労働移動の足かせとなる退職金優遇税制の見直しは、一向に議論の俎上にのぼらない。一体これは何故なのだろうか。

最も説得力のある説明は、何十年も営々と勤務してやっと手にした退職金に課税するのは、庶民感情として忍びないというものだ。

 しかし、勤続年数とともに増加していく退職所得控除は、勤続四○年で二二○○万円にも達する。一般のサラリーマンの退職金はこの控除だけで、ほぼ無税になるのだ。そこからさらに所得を半分、そして分離課税をするということは、逆に高額の退職金をもらうことのできる官僚や会社役員を優遇しているのではないだろうか。

 例えば年間所得二○○○万円の人が五○○○万円の退職金をもらったとする。所得二分の一の特例と分離課税の特例がなければ一七九七万円の所得税を払わなければならない。ところがこの二つの特例によって納税額は二九七万円。一五○○万円もトクをしていることになるのだ。

 退職金のもう一つの問題は、その存在が定年離婚を増やしているというこだ。会社に行ったきり家に帰ってこない、家事や子育ては妻に任せきり。そんな夫に妻達は怒っている。そこで、夫が定年になると妻は積年の恨みを爆発させ、退職金を慰謝料に取って、離婚に踏み切る。最近では妻の方が「一緒にいるのがいやになった」という理由でも離婚が認められるようになったから、行き場を失った夫達が精神科医や弁護士事務所を頻繁に訪ねてくるのだそうだ。

 退職金優遇税制で一番喜んでいるのは、慰謝料の目減りが防げるエリートの妻たちかもしれない。

 

 

泣きっ面に蜂の独身男性

 厚生省が初めての「年金白書」を発表した。来年の公的年金制度改正を控えて、将来の年金制度のあり方を国民的に議論してもらうための素材だという。

 白書の目玉は、年金の保険料負担と給付水準に関して五つの選択肢を明示したことだ。

 第一の選択肢は、現行の給付水準の維持で、将来の保険料率は三四・三%と現状の二倍に膨らむ。

 これと正反対なのが、第四の選択肢で、保険料率を据え置く代わりに、年金給付の水準は現状の六割に減少する。第二と第三の選択肢は、この二つの中間ケースだ。そして第五の選択肢は、厚生年金は廃止して、基礎年金のみにするというものだ。何やら破綻した生命保険会社の再建処理案のような気もしないではないが、お年寄りの生活を守りながら、如何に世代間の不平等を小さくしていくのか、これからが厚生省の手綱さばきの見せ所だろう。

 ところで、白書に盛り込まれた数字でもう一つ興味深いのは、年金の不平等は世代間だけではなく、家族類型による格差もかなり大きいという事実だ。

 現行の年金制度は、@共働き世帯に比べて専業主婦世帯が有利、A平均寿命が長い女性が有利、B低所得者の方が有利という三つの特徴を持っている。

 そこで、白書で示されたモデル年金額をもとに、平均寿命まで生きたときの一生の負担と給付を家族類型ごとに計算してみた。ただし、六○歳台前半の年金給付は、白書のなかでも給付抑制策の一つとして廃止の可能性が示されているため、ここでは六五歳支給を前提として計算をしている。

 掛け金に対して最も多く年金が戻ってくるのは、独身女性の一・五倍、次いで専業主婦世帯の一・四倍、共働き世帯は一・一倍だ。ところが独身男性は○・八倍と、払った分も返ってこない。

 専業主婦世帯には「将来の年金制度を支える子供たちを育てているのは自分たちだから、多少の優遇は当然」という理屈がある。ところが、独身男性は、同じ独身の女性たちの半分しかリターンがない。嫁も年金も貰えないでは、まさに泣きっ面に蜂である。

 しかも、その独身男性は猛烈な勢いで増えているのだ。全国の世帯構造変化を十年先取りしている東京都では、三○代前半男性の既婚者はすでに半数以下だ。独身が男性のライフスタイルの主流になる日は近いのに、彼らが年金制度に反旗を翻す気配は全くない。彼らはこのままサイレント・マジョリティになっていくのだろうか。

 

 

デフレが日本人のライフスタイルをドイツ化する?

 23年ぶりのマイナス成長が確実視されるなかで、日本経済がデフレに突入するのではないかという懸念が急速に広がってきた。もっとも、包括的な物価動向を一番正確に表すとされるGDPデフレータは、すでに94年度から伸び率がマイナスになっている。直近の97年度こそプラスになりそうだが、これは消費税率の引き上げが原因で、その影響を除けば実質マイナスは変わりない。つまり日本経済は4年間もデフレが続いているのである。

 物価が上昇しなくなる。この現象は、景気の低迷という循環要因に基づくものではなく、世界に共通する構造的な変化だと「デフレの恐怖」の著者のR・ブートル氏は言っている。規制緩和にともなう競争激化で利益が増えず、賃金も上がらない。さらに、新興工業国からの安い輸入品の増加がインフレにとどめを刺しているのだ。

 ブートル氏によると、第二次世界大戦に突入するまで持続的なインフレというものはほとんど存在しなかった。一九三二年のイギリスの物価水準は、一七九五年よりも低かったという。物価が上がらない経済というのは、決して特殊なものではなく、戦前はごく当たり前に世界に存在したのだ。

 それでは、インフレが消えると何が起こるのか。一番大きな影響は、持ち家志向が弱まることだろう。持続的なインフレ下では、住宅ローンを抱えて家を買うという行為が一番有利な資産形成方法だった。10年、20年と我慢してローンを払い続けていれば、やがてインフレが借金を吹き飛ばしてくれたからだ。だから、戦後持続的なインフレが続いたイギリス、アメリカなどアングロサクソン系の国々では現在でも持ち家率が高い。そして、アングロサクソンが持つ「一人の人を一生愛し続けるべき」という規範も、安定した家族の下で、持ち家による資産形成を進めるための役割を果たしてきたのだと思われる。

 一方、相対的に持ち家率の低い欧州各国は、二タイプに分かれる。イタリアのように高インフレが蔓延した国とドイツのように物価があまり上昇しなかった国だ。

 今後、日本にデフレ経済が定着すると、持ち家率が低下し、アングロサクソン型の規範も弱まっていくだろう。その時、物価との関連でみる限り、日本人のライフスタイルはイタリアのようなラテン型になるのではなく、ドイツ型になっていくということになる。

 もしかすると、日本にドイツブームが訪れる日は近いのかもしれない。

 

 

子育て減税は、晩婚化を促進する?

 総合経済対策の一環として子育て減税が実施されることになった。これまで高校生、大学生のみに認められていた「特定扶養親族控除」を六歳以下の子供にも認めるというもので、通常の扶養控除に比べて所得税で十五万円、住民税で八万円の控除額が上積みされることになる。

 減税額は子供一人あたり年間二万三千円と報道されているが、所得控除の増額だから、減税額は当然所得の大きさによって異なる。そこで、大卒男子標準労働者、専業主婦世帯のモデルで、この制度の導入によって年間どれだけの減税額が得られるのか計算すると、夫が三○歳の場合は二万三千円、四○歳の場合は三万八千円、五○歳の場合は五万三千円と、遅くなってから子供を作るほど減税額が膨らむことがが分かる。

 五○歳で子供を作れるのかという疑問はあるかもしれない。しかし、平成七年の人口動態統計によると、最も高齢で出産した女性は五○歳で、全国で十人いた。男性の方は「七五歳以上」という人が一人いる。高齢で子供を作ることは決して不可能ではないのだ。

 しかし、あまりに出産の時期を遅くまで引き延ばすのは、税負担の面からも考えものだ。なぜなら、特定扶養親族控除は子供が十六歳から復活し、二二歳まで続くからだ。あまりに遅く出産をすると、せっかく子供が高校生になって、再び特定扶養親族控除を利用できるようになっても、自分の方が定年を迎えて年収がほとんどないという事態に陥ってしまう。

 「賃金構造基本調査」によると標準労働者の賃金のピークは五四歳だから、それまでに特定扶養親族控除を無駄なく使おうとすると末子を三二歳までに生まないといけない。平均初婚年齢の二九歳で結婚して、ハネムーンベビーの長子が生まれるのが三○歳。すぐさま第二子を作ってぎりぎりが三二歳だ。つまりこの制度は、晩婚化を促進するというよりも、ライフスタイルを規格化する効果があることになる。

 もっとも、それはこの制度が子づくりのインセンティブになる場合に限られる。モデルで計算すると、子供を一人育てることによって、生涯で減少する税負担は現行制度で二六六万円。これに、今回の子育て減税分一八万円が加わって、総額二八四万円が戻ってくる。

 ところが子供一人にかかる教育費はおよそ二千万円。小遣いや結婚費用の援助など間接費用も加えると四千万円が必要だ。今回の減税分が占める割合はわずかに○・四%。幸か不幸かライフスタイルへの影響は皆無になりそうだ。

 

 

結婚ビッグバン。生き残るのは女性?

 リストラ離婚や定年離婚が増えている。いつ破綻するか分からないのは金融機関だけでなく、夫婦も同じ。ビッグバンが結婚にも及んできたということだろうか。

 離婚の原因は「カネの切れ目が縁の切れ目」と言われるが、リストラや定年が離婚を誘発しやすい本当の原因は、夫が家庭に帰ってきて、夫婦で向き合う時間が長くなり、それまで忙しさにかまけてウヤムヤにしてきた夫婦間の問題が一気に噴出する要因の方が大きいのだそうだ。

 本当に仲の良い夫婦は何があっても大丈夫だが、問題を抱える夫婦は「事件」をきっかけに危機が表面化して破綻してしまう。ここら辺りも金融機関の経営と妙な一致をしていて面白い。

 ところで、離婚後の状況に関して、きわめて興味深いデータが存在する。国立社会保障・人口問題研究所の研究で、配偶関係ごとの平均余命が明らかになっているのだ。一九九○年の有配偶者の平均余命は、男性が五六・八歳に対して、女性が六四・○歳。女性の方が六歳ほど長いが、これは平均寿命の差に起因するもので、とりわけ目新しいことではない。ところが、男性も女性も未婚者や離・死別者は有配偶者よりも平均余命が確実に短くなるのだ。

 女性でみると、二○歳時の平均余命が、有配偶者に比べて、未婚者は九・○歳、死別者は三・六歳、離別者は四・九歳短くなる。配偶者を持たないと、生活が荒れて長く生きられないのだ。

 この傾向は、男性ではもっと極端だ。未婚者は九・七歳、死別者は六・五歳、離別者は何と一二・四歳も余命が短い。

 未婚者の男女格差はそれほど大きくないが、離婚者の男女格差は大きい。離婚して縮む寿命は、男性が女性の二・五倍にも達しているのだ。

 しかも、より大きな問題は、最近二○年間で、最も平均寿命の伸長が少ないのが、男性の離別者だということだ。

 今後結婚市場の流動化が進んで離別者が増えていくと、男女の寿命の格差はますます広がっていくことになる。

 リストラや定年で仕事を失い、配偶者を失い、しかも十二年も早く死んでしまうのでは、離別男性の人生はあまりに悲しすぎる。しかも、寿命の延びも期待できないとあっては、泣きっ面に蜂だ。

 解決の手段は、中高年向けの再婚市場を整備することだけだろうが、敗戦したベテラン投手に再登板の機会が与えられる時代は来るのだろうか。

 

 

喫煙者の保険料差別は正しいのか

 たばこを吸わない人の生命保険料を割り引く非喫煙者割引の動きが拡大してきた。

 これまでのデータ収集で喫煙者と非喫煙者の間に明確な死亡率の格差があることが実証されたことと、唾液を採取して喫煙しているかどうかを判別する検査法が確立したことが原因だという。

 喫煙をするとどれだけ死亡率が高まるのか、今のところ具体的なデータを生命保険各社は公表していないが、第百生命が発売した非喫煙者向け生命保険では、定期特約部分の保険料が四○歳男性の場合で一七・二%安くなると言う。

 喫煙者の死亡確率が高いのなら、喫煙者自身がそのリスク分を負担しなければならないのは当然だが、二割近い保険料の格差が生まれれば、非喫煙者の契約は割引制度を持つ保険会社に流れるだろうから、全ての生命保険会社が非喫煙者割引を導入せざるを得なくなる日は近いだろう。

 そうなると、当然、保険料のしわ寄せは喫煙者に行くことになる。九六年の男性喫煙者率は五七・五%であるのに対して、女性は一四・二%と、喫煙者は四分の一しかいない。現在でも平均寿命の長い女性の生命保険料は割安に設定されているから、非喫煙者割引が一般化すると、平均としてみればますます女性が生命保険料の面で有利になることは間違いない。

 ところで、喫煙者が早く死ぬことが実証されているのなら、生命保険料が割高になる代わりに、年金保険料は、逆に喫煙者の方が割安になるべきなのではなかろうか。

 平成八年の「家計調査」によれば勤労者世帯が一カ月間に負担する生命保険料は約四万円。一方、年金の負担は、個人年金保険料が五千円、公的年金保険料が二万九千円となっている。一見、年金保険料よりも生命保険料の方が多いようにみえるが、公的年金の保険料には同額の企業負担分があるから、実際の掛け金は生命保険料よりも、年金保険料の方がずっと多いのである。

 つまり喫煙者の保険料差別を年金にまで広げて徹底すれば、損をするのは非喫煙者の方ということになる。

 ところが来年制度改正が行われる予定の公的年金では、喫煙者割引の検討が行われている形跡は全くない。それどころか、男性に比べて明らかに有利な給付を受けている女性の保険料を高く設定しようとする動きさえないのだ。

 保険料が高いの安いのと細かいことを言わず、黙ってゆったりと紫煙をくゆらす。それが本当のダンディズムなのだろうか。